"Rock And Roll" ( The Velvet Underground)和訳

ヴェルヴェットのアルバム「Loaded」を中古で買いましたので、感極まり、なんとなく和訳してしまった。 

LOADED - REMASTERED

LOADED - REMASTERED

 

洋楽を好きになるにはまず歌詞が分かんないと、って感じなんで他の曲も訳すことがあるかもしれないけれど、とにかく今回はRock and Rollをいきましょう。けだるい語りのようなルーリードのボーカル最高じゃない? 

 

 

 

「Rock and Roll」

Jennie said when she was just five years old

There was nothin' happenin' at all

Every time she puts on a radio

There was nothin' goin' down at all

Not at all

 

ジェニーが言ってた話だよ、ちょうど五歳の頃

ジェニーにはなにも起こんなかったんだよ、“出来事“って奴がさ

いっつもジェニーはラジオをつけた

けどさ、なんにも起こりはしなかったんだ

まったくすっかりなかったんだ

 

Then one fine mornin' she puts on a New York station

You know she don't believe what she heard at all

She started shakin' to that fine, fine music

You know her life was saved by rock 'n' roll

 

それからある晴れた朝だよ、ジェニーはNYラジオをつけてみたんだ

ほら分かるだろ? ジェニーは自分の耳が信じられなかったんだ

ジェニーは知らず知らず、そのいかれたミュージックにからだを揺らしはじめてた

なにが言いたいかって? ジェニーは救われたんだよ、ロックンロールって奴にさ

 

Despite all the amputations

You know you could just go out

And dance to the rock 'n' roll station

It was all right (It was alright)

Hey baby, you know it was alright (It was alright)

 

あらゆる切断がきみの前に立ちふさがろうとさ、

そうだよ、あんたは殻をやぶって、

ロックンロールレィデオに身を揺らすことができるんだ

なあ、それでいいんだよ

ほら、分かるよな、これでオールオッケーなんだよ

 

Jennie said when she was just 'bout five years old

You know my parents gonna be the death of us all

Two TV sets and two Cadillac cars

Well you know, it ain't gonna help me at all

Naw, just a tiny bit

 

ジェニーが言ってた話だよ、ジェニーが五才かそこらのとき、

彼女の両親は死んでるみたいだった

2つのテレビセット、それに2台のキャデラック

分かるよなあ、そんなもんジェニーの助けになっちゃくれなかったことをさ

そんなの、まったくどうしようもねえもんな

 

Then one fine mornin'

She turns on a New York station

She doesn't believe what she hears at all

Ooooh, she started dancin' to that fine, fine music

You know her life is saved by

Rock 'n' roll

Yeah, rock 'n' roll

 

それからある晴れた朝だよ

ジェニーはNYラジオをつけてみた

すると、ジェニーは自分の耳が信じられなかったんだ

ジェニーはそのめっちゃいかれたミュージックにからだを揺らしはじめてたんだよ

なにが言いたいかって? 

ジェニーは救われたんだよ、ロックンロールって奴にさ

そう、ロックンロールだよ

 

Despite all the computations

You could just dance to that rock 'n' roll station

And baby it was alright (It was alright)

Hey it was alright (It was alright)

Hey here she comes now!

Jump! Jump!

 

どんな計算式があったってさ、

そうだよ、あんたは殻をやぶって、

ロックンロールレィデオに身を揺らすことができるんだよ

なあ、まだ分かんねえか? これで身を揺らしてるあんたは正しいんだよ

ほら、もう心配すんなよ、こうしてメロディにのってりゃいいんだ

もうすぐ彼女だってくるぜ!

 


The Velvet Underground - Rock & Roll

 

 

 

なんか訳してて思ったけどさ、この歌詞って「ロックンロールは鳴りやまないっ!」じゃない?

の子(神聖かまってちゃん vocal)がもともとvelvet undergroundのファンだったから、僕も聞き始めたんだけど、やっぱの子のヴェルヴェット愛は無意識のうちに、彼の最も有名な曲の中にも入り込んでいたんだなあ。

 

youtu.be

多孔化を多孔化のまま束ねることの矛盾、悲劇の共同体を超えるためのARは戦争するVRとは違うの?/第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』④ 完

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不可視に浸食する監視と管理、不安定な自我 vs 地域社会 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』③ - yozora_kのブログ

 

社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。

課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介NHKブックス、2013)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

 

 

 

<第六章 「悲劇の共同体」を超えて>

でも無理やり続けるんだったら、アニメ巡礼でわいわいしたあとに、その記憶を忘却していけばいいんじゃないのかな。

 

夜空 不可視な監視システムによる再分配はダメだけど、この章のはじめに言ってる宗教的な再生産ていうのをそのままのかたちではなく、現代に適応させる試み、っていうのを言いたいんだと思うんですね。そしてジャンリュックナンシーとモーリス・ブランショが登場するんですが、ジャンリュックナンシーの引用がすごいいいんですよね。「したがってなにものも失われたわけではない。それゆえなにものも失われてはいないのだ。失われたのはただわれわれ自身なのである」……かっこいい!

相原 かっこいい!

夜空 ぼくも言いたい。どこかで。

相原 言いましょう、どっかで。

夜空 なにものも失われてはいないのだ。失われたのはただわれわれ自身なのである。……正しい。

相原 4円なくなったとき言えばよかったのに。

夜空 え?

相原 なんか若干レジの数字が合わなかったみたいなことを。

夜空 ははは……。なくなってはない!過不足はなかった!みたいな。なかったのは俺だ!っていう。

相原 笑

夜空 まあ熱いですよね、これは。ここでナンシーが引用されてるのは、社会がなくなったあとに共同体ができたっていうのではなくて、p218に「そこでは共同体の理想が近代社会においてこそ構築され、ロマン主義的に追い求められるもの、つまり失われたという意識こそが共同体を具現化するという逆説」があるということなんですよね。三丁目の夕日みたいな話ですよね。共同体はそもそもあったのかっていう。失われたっていう意識から共同体という幻想を作り上げている。

相原 わたしは割となんか近代国家みたいなものを想定して考えたので、統一民族による帝国だったり王政であったり、そういうものっていうのが葬り去られて市民による社会が、国家ができた、っていうのをちょっと想像しました。

夜空 え、いや……そういうことだったんですか……!

相原 いやそうじゃないかもしれない。社会学っていう学問が割とそこから生まれて、そこを端緒にしてるので、わたしがついそれで考えてしまったという。でもなんかノスタルジーみたいなものってありますよね。失われた……。失われてるからノスタルジーなのか。

夜空 あっでもそうなのかな……「部族あるいは帝国の消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成された」って書いてあるから……でもこれは文脈がちょっと……。

相原 曖昧ですね。

夜空 曖昧ですね。

相原 まあ全体的に曖昧ですからね。

夜空 失われたっていう意識が共同体を具現化するっていうナンシーの議論を受けて、ブランショの方が、個人が共同体の中に投げ込まれる体験、その契機としての「他者の死」っていうのについて述べてますね。「他人の死を自分に関わりのある唯一の死でもあるかのように、おのれの身に担いとること。それこそがわたしを自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって、共同体を開示しつつ、その開口部に向けて、わたしを開くことのできる唯一の別離なのである」ということが言われてるんですよね。その失われたという感覚とか死の感覚っていうのが、共同体のはじまりにあるっていうものとして。

相原 そうなのかなって気がします。

夜空 そのあと慰霊行事とかが例に出されていて、抽象化された死者っていう概念が出てくるんですが、死者を抽象化して、そのときの失われた感覚をもとにして共同性を復活させるというか、その喪の感覚でつながる……。

相原 喪失というかたちであれば、具体的な物語が描かれるより共有はしやすいのかなっていうのもなんとなく分かります。虚無への祈りというか。

夜空 この第六章の流れとしては、その喪失の共同体(悲劇の共同体)が、その「失われた」とか「死である」というのを核としたものこそが、共同体を復活させるというか、ひとつの契機としてなりうるという風にしてるので、そこを前提において話が進められてるわけなんですよね。こう、「喪失ありき」で。だと、アニメ聖地巡礼が出てくるのがよく分かんないんですけど……。

相原 でも無理やり続けるんだったら、アニメ巡礼でわいわいしたあとに、その記憶を忘却していけばいいんじゃないのかな。

夜空 忘却していく……。

相原 分からん。なんも分からん。

夜空 まあ観光という点で見ると……。

相原 チェルノブイリが観光地化されてるみたいな話かな。

夜空 あ、そうそう。それが裏にあるんですよね。ここにね、まったくその話題が出てこないので、ちょっと微妙なんですが、「観光」から「悲劇の共同体を超えて」は、明らかにその意図が背後にある。いずれにせよ、ひとつの補助線として「チェルノブイリの観光地化」はありますよね。それがないので、長崎の原爆の慰霊の話とかが例に出されてるんですが、その死者、あるいは被ばく・被災へのいたましい記憶をどうやって維持するか。これは世代交代とかしていくわけで、その最初の喪失を知るもの、当時のことを知ってる人たちっていうのは、どんどんいなくなっていくので、そうやって記憶を継承していくかっていうことが言われていますね。でも当時のことを振り返り痛ましくおもう「生き残った人」の前に、名もない人たち・匿名のひとたち(要するに生き残れなかったひとたち)がいて、悔恨をわれわれに投げかけている。で、その最初の名もない人たちっていうのは供犠に捧げられている、と。

相原 結局なんの話してましたっけ? 最後の方は具体例ですよね。

夜空 記憶の継承……、あっだから記憶の継承することで共同体を復活させるって話ですよね。

相原 あー、そうだ。わたしはここでちょっと「この世界の片隅に」という映画を思い出していました。

夜空 どういう映画ですかそれは。

相原 個人的には、その戦争を現代にどのように描きだせるのかっていうテーマに真っ向から取り組んだ映画だと思っていて、やっぱりその戦争体験の話とか聞いても、「いや、知らないよ、昔の話」ってなるじゃないですか。

夜空 はい。

相原 だからこそ、その当時のひとの生活目線に立って、戦争っていう大きな物語を、できるだけミクロな視点から積み上げていって描くってことに取り組んでいて。「あーこういう感じだったんだな」っていう想像ができる、そういう映画がちょっと前にあったんですよね。やっぱり生活して経験してないことって、現実味が薄れていってしまうじゃないですか。「この世界の片隅に」っていう映画は、戦争の映画ではあるんですけど、そこで生きてる庶民ってものにフォーカスして、それを丁寧に丁寧に描いていったので、結果的に見てる人が、「あーこうなるんだ」っていう分かる感がすごく出るという。

夜空 なるほど。なんか、あれをちょっと思い出しました。たしか五章の文中にあったと思うけど、ハワイで観光客が求めるのは、オーセンティシティ(本物性)だ。で、それは幻想かもしれないっていうのをだれかが言ってて、「それはつくりあげられたものだから」って言ってるんだけど、「いやいやその幻想の中に本物性を見るんだ」って立場もあって。「裏局域」と「表局域」って話のとこで。戦争に関して概略(本物性)を言われるよりも、細部を描かれてる方(幻想の中で垣間見える本物性)がグッとくる。

相原 うーん……。そうですね、細部を描いてくれた方がとグッとくるっていうのもありますし、あとその本物性の話をするんであれば、結局なにが本物かって後世で語り継いでる人にとっては分かんないじゃないですか。すべては虚構でしかないので。まあだからこそ、「この世界の片隅に」の話になってしまいますが、あの映画は虚構としてしか語れないからこそ、虚構として描くかみたいなテーマにすごく取り組んでいて、主人公の女性が絵を描くんですけど、この戦争っていうのも映像として描かれるものとして表現されているっていう。

夜空 そうなんですか。

相原 語ることの虚構性っていうものにすごく敏感な映画だったので、まあ今回の本の話につなげるんであれば、過去から回想する歴史であったり、忘却された供犠であったりっていうのは、どうしても虚構を帯びていかざるを得ないので、であればどうやって「生きた物語」ではないですけど、生きられた経験っていうか、それこそ再帰的なものにしていかなければいけないので、生きていく中で振りかえって何度も強化されていくような、そうしたものにどうしたらしていけるのかっていうのが、必要なのかなって思います。

夜空 いい映画ですね。

相原 じゃあ本に戻って、夜空さんどうですか?

夜空 えっと、最終的に結論としては、さっき言ったような悲劇の共同体の記憶の継承をどのように可能にするかっていうことで、まあ「儀礼」が可能にするってことを言っていて、儀礼で重要なのは身体の動作だって言われてるんですよね。姿勢とかがその儀礼的空間においては意味を持ってくる。なので儀礼っていうのはひとつありなんじゃないかと。けど現実の多孔化による式典の意味の失効っていうのがあって、もうなんか式典の途中でインスタに上げる写真をバンバン撮りはじめたりすると、儀礼自体の意味が失われてしまうのでちょっと厳しいってことを言っていて、じゃあどうすんだってことになってる。そのひとつの懸け橋として、儀礼化の試みとして、「タッチド・エコー」(マルクス・キーソン)っていうのがあって、ドレスデンを見下ろす高台の鉄柵に設けられたAR作品で、鉄柵に肘をついて両手を耳に当てる姿勢を取ると、骨伝導によって飛行機の降下する音や、爆撃音が響いてくるようになっている、と。まあ、これも儀礼的であり、指定された身体の所作をすることによって体験できるわけですよね。

相原 そうですね。その、メモリアル。

夜空 そうそう、メモリアル。忘れてた。

相原 実際に空襲を受けた要所に、メモリアルが施設として置かれることで、たとえばその当時そこで本当にいたひとのように、鉄柵に肘をかけると空襲の音が聞こえるとか、当時起こったことを再体験するっていうシステムなんですかね、制度かな。そういったことが整備されることで、記憶を継承していこうっていう試みが、ラストの方されていましたね。

夜空 そうですね。「非日常と日常のはざま」のような空間を創造することが必要っていうことで終わってるんですけどね。まあ、「タッチド・エコー」とかで戦争の悲惨さ・ヤバさってことを体験することが共同性につながる。その気持ちはよく分かりますよね。

相原 筆者は維持費用や参加者を増やす取り組みの面で問題があるって言ってますよね。お金かーって思うと世知辛い。

夜空 その部分だけに関して言いますが、VRとかで戦争するゲームとかあるじゃないですか。

相原 おっ!

夜空 どうなんですか、それは。

相原 えーでも現実感ないんじゃない。モンハンとかやってても。

夜空 でも「タッチド・エコー」はARでしょ? VRも相当クオリティの高いもの、そしてゲームとかもあると思うんですけど、またあれは違うんですかね。

相原 いやあ、でもやっぱ、娯楽としての戦争物は訴求性が薄そうな気がしますね。

夜空 でもゲーム内での死とかもあるじゃないですか。GAME OVERとか。

相原 うーん。娯楽としての戦争物と「タッチド・エコー」と、どう違うのかっていうところに絞って考えた方が分かりやすそうですね。

 

《結論へ》

依存くらい好きにさせてもいいじゃんかっておもってしまう。

 

相原 結論としてはどんなところになるんでしょう?

夜空 結論としては……やはりタッチド・エコーから、多孔化が多孔化のまま束ねられるみたいな……

相原 束ねられていいのかなあ。

夜空 まあある種の共同性は立ち上がることになります。それは、ハコモノって言われたあの……

相原 ゆるキャラ

夜空 ゆるキャラはちょっとおれ違うと思うんだけどな……若干の疑問が残ってる。だからまあ一過性のメディア戦略による盛り上がりとかの共同性。あるいは、ネットの祭りがつくりあげる共同性。それよりは死や失われたものに関する共同性の方が長く続き、それに焦点を絞って、ある種の共通の感覚っていうのを復活させることが、分断された島宇宙化したわれわれのクラスターにおいて橋渡しの意味を投げかけるのではないか、ってことですよね。結論としては。どうですか、相原さんは?

相原 いいと思います。いっこ面倒くさいこと言うと、分断されて何が悪いのかなってところは……。

夜空 なんか本書で暫定的な結論が三つくらい提示されていてそういうのもあったよね。

相原 あー、なんか三つの方法みたいのありましたっけ。

夜空 そう。そうその中でp236に「果たしてそれは問題なのか、なにを遠慮することがあるのか」っていう。

相原 そうですね。あとはまあ書いてはないですけど、やっぱり島宇宙の中にいると気持ちいいじゃないですか。おそらく、オタクって。他者と出会わなくて済むので、楽だし。SNSで自分を魅せるというかたちで、自閉的にキャンセルとかほのめかしコミュニケーションしてるひとだって、人と関わりたいと思ってるか怪しいじゃないですか。

夜空 なるほど。そうかもしれない。

相原 そう、自閉的に安定してたいって欲望も人間は抱えていそうだなあとは、ちょっと思いました。

夜空 だから……そういう在り方が間違っているなどと、きみたちはどういう正当性をもって言っているのか!って感じですよね。

相原 わたしは基本的には筆者と立場が同じなんですけど、自閉的なものを好む人に正当性をもってこれを主張できる論立てはないような気がしていますね。危ないとか、そういうことになるのかな。

夜空 たぶんね。依存とか。

相原 依存くらい好きにさせてもいいじゃんかっておもってしまう。

夜空 なんか僕、それに関連してひとつおもったのは、もちろんその分断された空間において自閉した場合、なにもおこらないって可能性があるよね。

相原 あ、それはたしかに。

夜空 だからこの本で、メモリアルとかタッチド・エコーとか、それって自発的な行動に限られていて、自分から「それをやってみよう」って言って加わる共同性の話をしてるんだよね。で、普段の状態に言うと……。うーん……まず本書の結論についていうと、さっきそれが自発的なものに限られてるって言ったけれども、無意識的な身体感覚が無視されていて、意識的な身体の所作っていうのを強いる儀礼ですよね、ドレスデンの、あの……鉄柵に肘をついて耳に手を当てるとか、あとは慰霊で黙祷するとか。それってかなり意識的な所作じゃないですか。身体の。で、そうなってくると、無視されている無意識的な身体と意識的な身体っていうのが、より解離する状態になるので、たとえばタッチド・エコーで……まあタッチド・エコーだけじゃないけどもちろん、色んなこうARの啓発的な、啓蒙的な、素晴らしいシステムがあると思うけど……。

相原 全然素晴らしいと思ってなさそうですけど、はい。

夜空 こう参加するよって言って「あーやべーなー」とか言って帰ってきたあと、なんか普通にネットで他人を叩いてるみたいなさあ。

相原 あー。

夜空 意識的なものと普段意識しないものとのあいだに差があるってこと、つまり統合されてないってことで。

相原 地続きじゃないからなあ……わかります、そういうの。

夜空 そこはちょっと思いましたね。だから紹介されてるような参加ってのは形式的に自発的なものにならざるを得ないので、参加しないっていう場合なにも起こらないっていう可能性がある。あの、ネットの一瞬の盛り上がりとかにカチカチやってても、それは忘れるし、で、昔のデモとか学生運動とかは実際に行ったりして、人波に揉まれたりする感覚は残るじゃないですか。で、いまはカチカチっていくから残りにくいですよね。簡単にいうと。

相原 やっぱりちゃんと質感であったりみたいなの、時間とからだで感じなきゃだめなのかな……。

夜空 だから、なにも起こらない可能性から逃げない、逃げないっていうかそれを知りながらやるんだったらいいんだけど、そうじゃないんであればこう……。これはオフ会推奨みたいな話じゃなくて、もちろん。でもあの、やっぱり現実にどっかに行くとか、だれかに会うとか、それかネットの情報の影響を受けて、自分が何かの行動を為す。絵を描いたりとか、本を読んだりとか。だから現実の行動に結びつくかたちで、多孔化された現実を、ていうかネットを見る。ネットのそのコンサマトリーなコミュニケーションで疲れ果ててる場合じゃないってのは、ぼくは思いましたね。

相原 現実でなにも起こらなくならないように、感じたり、ひとと会ったりしていくみたいな。

夜空 そうですねえ……。相原さんはどうですか。

相原 どうですかね、細々したことですけど、全然結論と関係ないけど、監視社会のリスクみたいなものに対しては、やっぱりすべてのリスクを自分で自己決定で回収していくには無理があるので、他者の信頼にゆだねるべきじゃないのかなってことを思ってまして、まあルーマンが『信頼』って本を出してるのでちょっと気になるなあってちょっと思ったりしました。

夜空 なるほど。

相原 感想。

夜空 感想っぽい!

相原 いやあ、なんかこの本読んでて結構、これってあのことなのかなあって思うことが多かったので、そういえばあれもあったなあ、あれも読みたいなあみたいなのがすごくあって、おもしろかったです。

夜空 それはいいことですね。間口が広いというか、どこかと繋がりうるというか。

 

 

《雑談へ》

そういう人たちこそ、実は「なにもしてない」ことに気づくべきじゃないかと思うんだよね。

 

夜空 やっぱ「なにもない」ってヤバいと思うんですよね。

相原 なんか「なにもない」ってところに夜空さんが普段感じてる問題意識とかがあるなら聞いてみたいです。

夜空 でも「なにもない」のヤバさって感じないですか?つまり、ある程度こう現実にコミットしつつネットをやってる場合、何かがもうすでに起こってるので感じない可能性はありますけど、相原さんとかどうですかその辺?

相原 わかんない。たぶんわりとほんとは「なにもない」ことに耐えられてしまう人間で、だから逆にヤバいのかなっていう気がしています。

夜空 ぼくはたぶん、コミュニケーションだけですべてが終わってく世界みたいなさ、ネットのことでもいいし実生活でも。だから結果、「よかったよね」みたいな。こう……「不安とか、傷ついたりもしたけれど、なんか仲よく出来てすごい楽しかったよね」みたいな、まあどっか行くとかアクションがあるなら別だけど、なんかこう……話してただけみたいなさ。あとは別の角度から話すと、たぶん炎上してるとこを叩いてる人とかってさあ、現実は仕事に疲れて、ストレス発散とかでやってる人が多いと思うんだけど、だからそういう人たちこそ、実は「なにもしてない」ことに気づくべきじゃないかと思うんだよね。

相原 んー、虚無感?

夜空 だからそれよりは自分でなにかをやった方が楽しいんじゃないかと思ってるけど。

相原 ちょっと依存と絡めて話したら面白そうですね。

夜空 ネット依存?

相原 んー、ネット依存でもいいですし、依存ってもの自体が無意味な行動を繰り返してしまうってものですから。それってこう地に足ついてないというか。「なにもない」のかなってちょっと思いました。

 

 おわり。

 

不可視に浸食する監視と管理、不安定な自我 vs 地域社会 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』③

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ウェブ社会での親密性、見せたい私の承認問題 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』② - yozora_kのブログ

 

社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。

課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介NHKブックス、2013)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

 

 

<前回からの流れ>

夜空 四章から六章にかけて後半ということになって、第二部に入ります。第一部では、延々と物理空間の特権性の喪失が言われていて、まあなんというか、情報が空間を超えて来るので、その場にいること自体の価値っていうのが、維持できなくなってきているということですよね。

相原 そうですね。雑にまとめてしまうと、スマートフォンの普及にともなってソーシャルメディアが発達して、そのSNSにドハマリしてどつぼにはまって抜け出せなくなる、依存っぽい人たちがいる一方で、その逆にリアルの方では、デート中に携帯を見るみたいなかたちで、「お前いまそれやめろよ」みたいな案件が生じるようになってしまった。そのウェブによって物理空間の特権性が消えてしまったという話でしたね。

夜空 そう、リアルが違ったかたちになってきてると。ウェブに浸食されてると。で、まあ、その浸食されてるのを「多孔化」という言葉で、つまり「孔がいくつもあいてる状態」として形容されてるんですけど、その多孔化による社会的な問題とその解決法が第二部では示されている、ということですね。

 

〈第二部 ウェブ時代の共同性〉

<第四章 多孔化現実の政治学>

どこどこにおいて消息不明、たぶん山に行ったと思われる

相原 四章の話はざっくりふたつに分けられるかなと思っていて、前半はやっぱりその情報空間とリアルの現実空間が重なって多孔化してしまいましたよねっていう、それでその「電話のある場所がわたしの場所である」であったりとか、あと場所の特別さが喪失したであるとか、そういった事例を出してきたと思っていて、これがまずひとつ。で、次がその、じゃあその公共空間との関連で、情報空間と現実空間が入り乱れていく中で、それをどう統制すべきなのか、権力を用いて規制すべきなのか、という話を第二段でしていたと思います。だからその、「公共圏と親密圏」とか「現実空間と情報空間」とかそういうものを対置させて理解すると分かりやすいんですけど、「入り乱れてるよね、じゃあ統制して均一な空間をつくりますか?」みたいな、でも「それって倫理的にどうなの?」みたいな話をしている。あとリスクがもうコントロールできないとか。

夜空 多孔化現実を管理する力っていうことで、たとえば料理の撮影をレストランで禁止するのかどうかみたいな話もあるんですが……。「社会的振り分け」ってところがね、これはいま文脈を挟まずに単語だけ言っているわけですけど、気になりましたね。「社会的振り分け」って、いまもネットとかでよくつかわれてるターゲットマッチ広告とかが例に挙げられているんですが、グーグルとかで検索をかけたときに、自分のいままで見た履歴とか男性・女性の違いとか、何年生まれとか、そういった情報によってその人ごとに表示される検索結果の順序が違っていたりとか、まあ広告が違ってたりとかしてて、で、それが当事者(検索してる人自身)にはほかの人とは違っているのが分からないっていうことですよね。だから、自分にカスタマイズされた検索結果や広告が出てくるんだけど、それが自分だけのものと気づくことなく……、要するに監視する側は分かってるけど、監視されてる側はそれに気づかないみたいなのがあって、それによって分断が起きているということはあるかもしれないですよね。まあ、「社会的振り分け」というかターゲットマッチ広告とかは、実際に使われているので、それによって分断がはっきり分かれてくるかもしれないなとは思いましたけど。でも、当事者は気づかないので、この四章では(監視社会論側からの意見として)「自己情報コントロール権」が出てきて、グーグルとかに対して自分の情報がどのように使われているかを自分の責任において管理して、必要があれば、たとえばウェブサイトとかが勝手に自分の情報を利用していることに気がついた場合、それを差し止める権利を行使すべきであるみたいな主張も示されているんですけど、この本の中で言われている通り、まあそもそもそんなことはできないのではみたいな。簡単に言うと。ウェブの無限定性に抗しうる、そんなにぜんぶのこと(自分の情報がウェブでどのように使われうる可能性のすべて)を覚えているんなら、管理できるのであれば、むしろそうでないと自己情報コントロール権の行使はできない、よって難しいですよね、って感じになってましたね。まあ、「プライバシーのコスト論」っていう、たぶん前も出てきたような気もしますが、

相原 そうですね。

夜空 そもそも、個人情報を他者に預けたのはプライバシーを守るためであったので、それをこう、それは不当だと言って他者に預けたものをどうこうするのは結構無理があるっていう。だからネットにぜんぶ繋がないとか、マイナンバーを登録しないとか、そういうなんか頑張りを見せれば、なんとかできるかもしれないけど。

相原 山に籠もりましょう。山に籠もるしかない。

夜空 たしかに。山に籠もったらね。そんなに「社会的振り分け」はないかもしれない。

相原 そうですね。

夜空 国のなんか、管理してるノートには「山に籠もり中」という状態が書かれ、それ以上は何も書かれてないみたいな。

相原 いやでもそこ握られてるのちょっとつらい、悔しいですね。

夜空 どこどこにおいて消息不明、たぶん山に行ったと思われる、みたいな。

相原 自殺かな。

夜空 そういうことはあるような気がしますね。

相原 でもやっぱりその、そういうリスクが増大していく不安っていうのはあるんじゃないですかね。その、自分で管理できないっていう。信頼できるか分からない他者に、自分の重要な一部分を預けなければならない。

夜空 そうですね……。でもログインしないとサイトが見られないとか。なんか、そういうことじゃない? まず登録してくださいみたいな。そういうサイトとかあるじゃないですか。これ以上読むには、会員登録が必要ですっていう。

相原 えっちな漫画のサイトじゃん。

夜空 いやたとえば朝日新聞のウェブのあれとか。

相原 あれも確かにそうですね。

夜空 全然えっちなサイトとかは分かんないけど……。それ架空請求の話なんじゃない?

相原 えっ、架空請求? それもありますね。

夜空 架空請求じゃなくてもあるかもしれないけど。まあ、なにをするにしても登録社会でしょ。だから登録しないとなにもできないことになっているので、「社会的振り分け」はTカードとかPontaカードとか、使われてますよね。

相原 社会的振り分けをだれがしているのか、気になりましたけどね。なんか神の見えざる手というか。普通にこう、権力が悪いみたいなこと言ってるけど、じゃあ権力ってどこよみたいなことを考えると、茫漠とした……。

夜空 それは営業部とかなんじゃない?

相原 そういう話になるんですか。

夜空 営業じゃないか。なんか会社のデータ管理してる人たちでしょ。たぶん。

相原 なるほどね。

夜空 この人には今度プレゼント送っとくか、みたいな。たまにTカードでファミリーマートで買うと、来るよね。当たらない?

相原 えっ、一回も当たったことない。

夜空 なんか常連のあなたには、30円引きのクーポンとか。僕よく当たるんですけど。よく行ってるからかもしれない。

 まあ、四章の後半、さっき言ってたリスクの話に関連しますが、リスクの可視化ということですね。監視社会論の立場は、長らく地域の安全マップを作ることに対して反論を述べてきたということが挙げられていて、地域におけるセキュリティ問題を可視化する安全マップを作るということは、安全ということをアピールするときに、土地の値段が上がるということもあり、その過程で危なそうな人とかは当然排除されるわけで、そうした排除によって成り立つことなので、安全マップというものは。だから地図化することそれ自体が権力の行使であるということを、監視社会論の側からは主張されていたわけですが、2011年の東日本大震災により、放射線の汚染とかがあり、現実にこう分断というか、安全か危険かという差が激しくなった現実が起きたわけで、さっき言ってたのは単純にその土地の値段が上がる上で都合の悪いひとはその過程で排除されるってことを言ってたんだけど、震災が起きてからは安全とリスクのある土地が明確に分かれるようになって、その結果必然的にというか、貧困層は排除されるということになってしまったと。

相原 貧困層ということだけでなく、その地元で就職してる人/してない人、親族がいる人/いない人っていう、様々なそれぞれの世帯の事情によって、一部の属性のひとが排除されるということが起こってきますからね。

夜空 一部の属性……。

相原 そう、逃げづらい属性であったりとか。

夜空 そうですよね。それで、この排除はする側にとっては無意識的で自然となされるっていう。要するに、安全なところにはお金の持ってる人が行くけど、まあでもお金を持ってる人はべつに(元々その土地に住んでたひとを)排除しようと思って行ってるわけではなくて、安全だから行ってるわけで。排除は、する側はあんまり感じてない。そういう分断が起きてるということなんですよね。

相原 そうですね。

夜空 それでまあ共同性をつくるのは可能か、みたいな結びになってるわけですが。

相原 共同性とはっていう。ここで急に地域っていうのが出てきたんですよね。

夜空 あー、地域ね。うん。そうなんですよ。

相原 急に地域が出てきた……。

夜空 やっぱりね、多孔化した現実を結び付けるのは地域しかないっていう、そういう流れなんでしょうね。

相原 なるほどな。わたしはこう、ナショナリズムの話とか来るのかなってちょっと思った。

夜空 でもナショナリズムも言及されてるよね、六章かなんかで。

相原 あーちょろっとは出てきたかも。

夜空 でも安全マップはどうですかね。たとえば都市部で、危険な人を排除するとかどうなんですかね、どう思います?

相原 どうというのは、……えっ難しいですね。やっぱりなんか排除する……、うーん危険な人は排除せざるを得ないのでは、という気が。できればその危険な人を包摂して、危険でなくするようなシステム、制度が公的機関で用意されてるべきだとは思います。でもその危険なままで放置するっていうのは、かなり難しくなってくるんじゃないかなっていう気がしますね。

夜空 危険のその考え方によりますよね、どの程度かみたいな。

相原 そう、それもすごくあって。そのどの程度かをだれが決めるのかっていうところが、結構権力の問題で、コアなのかなあって思うかもしれないですね。

夜空 でも、「ここは安全な地域です」みたいな、たとえば都心部の近くとかでね、そういうところが多くなったとして、犯罪歴のすごいある人たちが一か所に集まる場所とかもできるわけでしょ、そしたら。排除された人たちが集う街みたいな。

相原 そうですね。もっと身近に、生活保護受給率が高い地域とかもありますからね。

夜空 あーそういうこと……。

相原 あとそういう括りで、ちょっとここで例は挙げたくないですけど、その外国人が多い街は治安が悪いみたいな偏見があって、地価というか家賃が安かったりとかはしますよね……。

夜空 まあでも地方はどんどん安くなるんじゃないですか、普通に考えて。外国人流入者も増えて。働き手になってくれて。少子化ですからね。東京だけが上がっていくみたいな。

相原 東京もうやだー。

夜空 東京はもっと上がる可能性ありますよね。まあ四章では共同性を立ち上げるところまではいってないので……。なんか気になるところはありました?

相原 そうですね……。なんというか、作者が結構やりたいことがどっちつかずなのかなっていう気持ちがすごくあって、そのどっちつかずさがわりと解決されないまま、その、次章に進んでしまうからそこはちょっともやっとしたかもしれないですね。ウェブによって現実が多孔化して、ダイナミックな意味が空間に付与されるようになるわけじゃないですか。

夜空 うんうん。

相原 この筆者はわりとそういうものに肯定的で、そのウェブの力を活かしたいみたいな気持ちがあって、またSNSに個人が投稿して、その理想の自分を見せることで自己が安定的になるみたいなことについても肯定的な評価をわりとしてるじゃないですか。

夜空 はい。

相原 一方で、いやでもやっぱダメだから共同性だよってことを言っていて。なんか共同性が復興されたら、またこの私的な空間が自由に入ってくるダイナミックさっていうのは、ちょっと両立できるのかなであったりとか。結局どういうポジションでいるのかなっていうのが、ちょっと見えづらいなっていうのが。両方欲しいんだろうなっていうのはすごく伝わる。

夜空 最後ドカンと来ますからね。

相原 ドカンと来ますね。

夜空 見えづらいですよね。ま、まさかそんな方法で共同性が復活する!?みたいな。すごいやり方で来るので、ちょっとびっくりしますよね。まあ、びっくりしたというのは言っておきましょう。

相原 そう、そういう感じで。はい。

夜空 まあここは繋ぎの章みたいになってますよね。

相原 そうですね。

夜空 前半と結論の接続部で、だから結論の前提となるような紹介が多くなってるので。なんかね……、メロウウィッツとかいう人がいて。

相原 あー出てきたような。

夜空 ちょっと読んでいいすか。「私たちがいたるところにいるということは、私たちが特にどこかの場所にいるわけではないということでもある」(本文、p149)っていう。まあ、ただこれが詩的でいい言葉だなあと思っただけなんですけど。

相原 そうですなー感が高い。

夜空 ちょっとぼやっと言うと、海とかね行くときは携帯見ないでしょみたいな。むしろぼくは電源オフとかにしますよって気持ちがありますね。

相原 夜空さんは実際電源オフにしてらっしゃるんですか?

夜空 バッグに入れたりしますね、サイレントモードにして。こうポケットとかにいれてると見ちゃうので。雑木林とか遊歩道とか、最近よく夜に歩いてるんですけど、バッグの中に入れて二時間見ないみたいな。

相原 おー。

夜空 離しておくってことですよね。

相原 距離感を保つみたいな。

夜空 あの、場所の特権性が喪失するって言ってて、まあそうなんですけど、だから物理空間の特権性を維持するためには電源オフしかないですよね、やっぱ。

相原 意図的に、切断しないと。いやでもわたし電源オフにしても電源入れちゃうんですよね。

夜空 意志が弱いのでは?

相原 電源入れちゃう……意志が弱いんですよ。あとなんか携帯失くしたときとか、えっ携帯ないやばいってことをツイートしようとして携帯がないことにまた気づくみたいなことを。

夜空 あっどっかに電話しなきゃ、あっでも携帯ない!みたいな。

相原 そうそうそう。

夜空 携帯なくすのはやばいよね。

相原 まあ、ややなくしますがさておき。

夜空 あーほんとですか。五、六章いきますか。五、六ねえ……まあいいんですけどねー。

相原 急転直下なんだよなあ。なんかラスボスが急に来た感じなんだよなあ。

夜空 まあ、五章はね、観光の話ですよ。はっきり言って。

 

<五章 多孔化した社会をハッキングする>

供犠としての泉こなた……。

夜空 観光から聖地巡礼とね、ババーンと来てるわけですよ。

相原 いやーアニメの話するんだあ、この人って思った。

夜空 もちろんするでしょう、なんかそういう人でしょう。アニメの話はどうでしたか?

相原 うーん、アニメじゃない方がいいんじゃないかなって。

夜空 え?

相原 なんでしょうね。この人がやろうとしてることは、多孔化してしまった、現実空間が情報空間によってその分断されてしまった状態を、その別の情報で上書きすることで新たにその空間を統合しようっていうことをやろうとしてると思うんですけど、でもなんかそれについて、後々そういう空間ないしコミュニティを継続させる・持続させるってところを重視するじゃないですか。

夜空 あーはい。

相原 皆様のアニメの好みがクールごとに変わる中でなかなか持続的にそのコンテンツ、もっぱら消費されてるようなものをっていうのは大分きついんじゃないかなっていうのが所感としてありましたね。

夜空 まあ、例に挙げられてるのは「らき☆すた」、らきすた神輿とかですよね。

相原 泉こなた……。

夜空 泉こなた鷲宮神社ですよね。

相原 ひえきさんのあれを思い出してしまうな。

夜空 「泉こなたの亡骸に愛を込めて」(『しあわせはっぴーにゃんこ』所収、2014年、カラフネ)ですね。

相原「もうきみのことは覚えてはいないが、」っていう。

夜空 それはでもあれでしょ、六章に出てくるバタイユの供犠。

相原 供犠ですねえ……。

夜空 最初の犠牲者は忘れられる運命にある。

相原 供犠としての泉こなた……。

夜空 まあ、アニメとかも言われてましたけど、まあ観光……。

相原 観光によって外とのかかわりを保ちつつ、緩やかな出入りのあるコミュニティみたいなのがつくれたらっていうところなのかな。

夜空 うーん、そうですよね。空間の情報の上書きのひとつの方法として観光が取り上げられてるんですよね。で、そこでのひとつの例が、まあこの本が企画された当初、すごい社会現象として上がっていたので、らきすた神輿が例として挙がってるってことで。結構前の話みたいな。今のアニメ聖地巡礼は、どうなんでしょうね。実際の土地とは関係ない文脈があって、それはアニメでもいいしドラマでもいいんだけど、でそれで、観光客がすごい聖地として訪れて、で、それを受けて観光地側がそれも含めたような地域活性を目指すみたいなことなんですよね。

相原 そうですね。

夜空 で、それがまずひとつ、個々人に分断されているような、だからアニメを消費してる人たちと元々その土地に住んでる人たちをとりもつような、ゆるやかな動きとしてまあひとつあるんじゃないかってことは言われているわけですね。でも、コミュニティとはなにかって話もされていて、それは決まった空間、どういった土地に属するということが思い起こしがちですが、人びとの再帰的な帰属感によって生み出されてるという風に、この本では書かれていて、これはジェラード・デランティという人ですかね、195ページですね、で、それに基づけば、コミュニティ、つまりどこで生まれてどこの学校とか行ってどこの会社で就職してとか、そういうのではなく、再帰的な帰属感で、ここの文中に出てくるのは、「ショッピングモールでの一体感」とかも書いてあるわけですね。

相原 うん。必ずしもその決まった空間とか固定された関係性とかではなく、なんか「ここに属しているんだ」みたいな認識によって、繰り返し体験され、おそらく醸成されていくもの。

夜空 そうですよね。再帰的な……これだ!みたいな。これが自分だ!みたいな。

相原 例えばその「これが自分だ!」っていうのでその、外から「これがあなたなんだよね」って言われて「あーやっぱりこれが自分なんだ!」みたいな繰り返し性・反復性みたいなものが、ある点で、アニメ聖地巡礼はよかったのかなとは思います。

夜空 そうですね。まあ、だから最初に書かれた「ルイーダの酒場」とかもひとつのコミュティとして呼びうるかもしれないって書いてあるわけですよね。ここで言われてるのって、「一体感」なんですよね。ウェブ上の祭りとかも書いてありますし。だから聖地巡礼も含まれるってことになっていて、で、そのあとシビックプライドみたいな話になっているんですが、どうなんでしょうか。

相原 結構わりと短くまとめられてた気はしますね。その、シビックプライドっていうのは市民が都市に対して持つ自負と愛着のことって書いてあったと思いますけど、まあそういうことに市民参加することによってつくってこうね、っていう話が。

夜空 そうですね。だけど、コミュニティは「一体感」なんですよね。だから市民が都市に対して持つ自負と愛着っていうのが……、あ、そうか観光地側のことなんですかね。要するに、観光客は「一体感」で来るっていうか、で、それに対して観光地側が柔軟に受け入れる姿勢みたいな……?

相原 たぶん、どちらかというと両方のことを言っているのかなあという気が、なんとなくします。……地域内のひとが愛着であったり誇りであったりっていうのを持つことを主眼にしてるので、地域観光地側の話をしてはいるみたいです。でもその地域内のひとが愛着とか誇りを持つために、その外から来る人が地域にどういうまなざしを向けるかっていうのが大事っぽいですね。

夜空 どういうまなざしを向けるか。

相原 そうですね。

夜空 ここでじゃあ、完全に観光地側みたいな……、いままでこう普通に情報社会にいる人たちを対象に喋っていたのが、観光地側の迎え入れる立場になっているんですよね。で、それは完全に都市や地域に組み込まれた一員としての視点でものを言っているので、なんかすごい違和感があって。

相原 ありますなあ。

夜空 さっきまでなんか再帰的モニタリングとか言ってたのに、自負と愛着って!みたいな。それが持てるなら……。

相原 いやでも自負と愛着は再帰的には構成されるんじゃないですか?

夜空 再帰的には構成されるかもしれないけど、根拠はないわけじゃないですか。無根拠な先回りで。予測の先回りで他人に対して自分を構成していくのが、他者に対しての自己のあり方だったんですが、そういう振る舞いをしつつも一方で、都市に対して、都市というか自分の住んでる街に対して、確固たる自負と愛着を持てるのかっていうようなことが疑問に思われましたね。

相原 持てないと思いますし、ここでもう筆者はある種「健常にコミュニケーションしようぜ」みたいな方向に振り切れてるようにすら見える気がします。

夜空 うん、まあだから両極端な二つの立場を同時に言ってるような……。

相原 言ってますね。

夜空 ひとつはすごい不安定な自己の在り方、というのを言ってて、他方でこれは観光地側の視座として必然的に導かれることなのかもしれないけれども、確固たる自己像みたいなことを言ってるので……。

相原 でも一方でこの人、確固たる自己像があると、結局人間は他人をハブッたりするよねみたいなことを……どっかで言ってましたよね。

夜空 排除ですか?

相原 結局その「結束力が強い地域はよそ者に冷たい」っていうのがp206で言っていて、やっぱりアイデンティティをコミュニティの一体感として持ってしまうと、そこから異質性はある程度除外されていくっていう。それをどう改善するのかっていうのは、ちょっとあんまりなかったのかなって。

夜空 それは次の章で、最終章で明らかにされる予定ですよね。

相原 最終章……。

夜空 でもこれ五章も結論部がちょっと面白くて、なんか結束力の強い地域はよそ者に冷たくて、地域の結合が緩くなると多様性に対する寛容度が上昇するとかになってるんですよね。

相原 追加して言うなら、現実空間が情報空間に上書きされて多孔化することで、その結束というのは明らかに緩まり寛容度は高くなっていたってことですよね。そこのダイナミックさとも結びついてたわけで。

夜空 これはでも……うーん……、これは、じゃあ、シビックプライドはできるって話なんですかね……そうすると。

相原 できるのかなあ。

夜空 だから要するに、地域の統合が緩くなり、多様性に対する寛容度を上昇させつつ、先に書かれてたようなシビックプライドを実現していくっていう話なんですかね。

相原 たぶん……そう?

夜空 だから結束力が強くなりすぎるとよそ者に冷たくなるわけじゃないですか。さっき言われてた通り。

相原 うんうん。

夜空 だから、「そうじゃないかたちで」シビックプライドを持たないといけないってことですよね?

相原 そうじゃないかたちで、どう持つんでしょうなあ……。でも、そういう点でよそ者を受け入れざるを得ない、よそ者と再帰的な関係を築いていかざるを得ないっていう観光っていうのはその妥当な解ではあるんですよね。論理的?理論的?に妥当な解ではあると思います。

 

第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』④ へ続く……)

ウェブ社会での親密性、見せたい私の承認問題 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』②

前回エントリはこちら 第一回 社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』① - yozora_kのブログ

 

社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。

課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介NHKブックス、2013)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

 

 

<第三章 ウェブ社会での親密性>

 

……じゃあフォロワー全員が赤ちゃんロボットかもしれない、っていう話ですか?

 

夜空 メディアっていうのは空間に制限された意味とかに孔を開ける。情報空間という別の空間と接続してしまうことによって意味が流入してくる、というような流れで話が進められております。

相原 そうですね。分かりやすく前提を言うと、近代以前はやっぱり空間と時間に関して言うと、空間はやっぱり距離的な制約がかなりあったし、時間はいまみたいに時計で均一化されていなかったんですけど、それが近代になって地図ができ、空間の移動手段が発達し、距離が縮まってしまったという背景があると思っていて、それでインターネットが最大の打撃というか、距離をほとんどゼロにしてしまった。時間的な差異もなくしてしまったというのもあって……。だからこれポストモダンとかの話に近いんですかね。んー物理空間の特権性がなくなってしまったよねっていうのをこの作者は言いたがっている。

夜空 この章の中で親密性というのが概念として主だって取り沙汰されているんですけど、親密性は前近代社会においては制度化のものであって、「近接性」(近くにいること)がイコール親密性だったと。これが「構造的役割」と書いてあったけれどもつまり制度的に与えられていた。それが後期近代になると、制度による空間、つまり制限された物理的空間が崩されて、さっき言ってたように距離をゼロにしてしまうものになる、ということですね。

相原 制度ということは曖昧ですけど、やっぱり近代以前の社会ってのは地縁か血縁に縛られる社会でしたし、それこそ移動手段もいまよりもっとレベルの低いものだし、生活の道具によっても制限されて、組織化された社会であったというのは間違いないので、伝統的な、慣習的な社会というのは地縁・血縁とかに束縛されてたんだろうなあと思います。

夜空 そうですね。それで、さっき言ったような構造的に決められた親密性から、制度じゃなくて自分の意志で親密なものを決めていくっていう。なんかお見合いから自由恋愛へみたいな話かなと思ったんですけど。

相原 そうですね。プライベートなふたりだけの関係性、純粋な親密性が築かれていくっていう。

夜空 後期近代って枠だったけど更にウェブ社会においては、自分の情報を自由に書き換えられるので、見せたい相手に見せたい自分を見せることができるわけですね。二章で出てきた「見てもらいたいように見てもらってるか」という不安があるけれども、その裏返しみたいな感じですよね。「見せたい相手に見せたい自分を見せる」ことは可能であると。それらは裏表の関係にある。

 「近接性」(距離的に近い)っていうのが親密性だったけれども、物理的距離は関係なく、だれでもその対象になりうる。そして選べる、ということですよね。自分が「見せたいものを」見せるのを許可した相手に「親密」というラベルを貼ることができる。極端な例として、この本では相手が人間でなくとも可能であるという例を提示していて、ある種のコミュニケーションが取れているかどうかが判断できれば、再帰的モニタリング(自分がどう見られてるか、相手の予期を先回りする)のが癖になってるので、相手が人間でなくとも親密な感情が生まれてくる。その例に挙げられてるのが「ラブプラス」とかなんですよね。で、アメリカの「ベイビー・シンク・イット・オーバー」っていう赤ちゃんのシュミレイターロボットも例に挙げられてるわけですね。この人形は学校の授業で使われていて、赤ちゃんのような作りの人形なんですが、不定期に泣き声を上げるんですね。泣きやませるためには背中に鍵を挿し込んだまま、所定の姿勢で抱いていないといけない。泣きやむまで抱かなければならないこのロボットの世話に懲りて、自分はまだ子供を持つ資格がないと感じるようになる、という教育上の意味も持っているんですが、親密性の問題にもかかわってくるんですよね。だってロボットが自動的に泣いてたりしたら懲りたりする必要なんてないからね。それをひとつの人格と見做してしまうような錯覚に陥るってことでしょうね。ラブプラスと一緒で。

相原 そうですね。これは「ほのめかしコミュニケーション」とちょっと似てますよね。ひとりできちんと振る舞ってしまうという、相手が見えていなくても。期待した反応すら返ってこなくても、そこになんらかの意味を見出してコミュニケーションを取ろうとしてしまう。それでそこに没入するんですよね、このラブプラスの例を出してきたところは特にですけど。

夜空 没入していく……。泣くとか喜ぶとかいった画面上の反応も、これは次にこういう展開を導くための伏線に過ぎないというかたちで理解できてしまう。すべてをフラグとして見做してしまうという。

相原 ラブプラスやったことないから全然分かんないですけどね。

夜空 これはでも、要するに「徴候」ってことですよね。ウェブ上のコミュニケーションにおいても、あらゆるところに「徴候」を読み取ってしまうというのは、あると思いますね。

相原 あとはその、p105あたりで「アイデンティティとは所与ではなくなんらかの社会的承認という行為によって付与されるものなのである」とか結構わたしはそうにゃんなーって思いました。アイデンティティってこう、自己定義とかそういう言葉に置き換えられると思うんですけど、自分が何者かっていうのは、外から見えるデータのようなもの、つまりそれは所与ではなく、見られることでfavをつけられることによって付与されることなんですよね。

夜空 でもどうなんですか、favは社会的承認なんですか?

相原 社会的承認なんじゃないですかねー。

夜空 そんな……、いや、そういう見方もできますね、もちろん。

相原 だからこうラブプラスとか赤ちゃんロボットから反応が返ってくると、favが返ってくると、そこで「これが俺だ!」と「この承認されたわたしがわたしなんだ!」という自己認識が生まれて、自己が最強化されていく。

夜空 そうですね。だから相手が赤ちゃんのロボットである場合も……じゃあフォロワー全員が赤ちゃんロボットかもしれない、っていう話ですか?

相原 ああ、そういうことも言えるかもしれないですね。なんというか、「アイデンティティを社会的承認によって得る」というのは至極普通の話で、別に病的な話でもないと思うんですよ。ただそれが適切なコミュニケーションを「精度の高い」状態で他者と取れてるという感じなので、相手から「いやでもそれちょっと違うんじゃない?」とか「それめっちゃよかったよ」とか言われて、「あっこれでいいのかな?」「あ、やっぱだめだったのかな」っていう微妙な修正をしていくっていう作業をだれもがやってると思うんですけど、自分がどうあるべきかっていうことにおいては。それがなんか当てにしてる他者の反応が嘘であったり、赤ちゃんロボットのツイートbotであったり、そういうものの反応を当てにしていると、こう野次馬みたいなおじさんとかこう精度の低い反応を当てにしてしまうと、ヤバいことになっていくし、インターネットはそういったことが起きやすいので。

夜空 「見せたい部分を見せる」っていうのと同じようなレベルで「見たいところを見る」わけじゃないですか。そうなっていくと、まずいかもしれないですね。

相原 偏ってもいきますし、人間関係嗜癖みたいなかたちにもなりますよね。そう、「見られたいように見られる」てところに没入して、強迫的にそれを繰り返していくっていうことは、当然不健全ですけどね。

夜空 まあでも、ネット上でなにが精度が高くてなにが精度が低いっていうのは、ある程度の自己判断基準がないと難しいっていうか無理なので、だから危ない人に引っかかってしまう可能性とかも出てきますよね。当たり前ですけど。

相原 そうにゃんなあ。……第三章って役割の話もしてましたよね。

夜空 ありましたね、役割。

相原 デート中に携帯を見るなって話ですね。

夜空 けど、携帯の相手の方が大事かもしれないよって話でしょ。本の結論的には。

相原 まあデート中に携帯を見るなよって思いますけどね、わたしは。

夜空 携帯見るくらいならデートに行くなよって話だよね、逆に言うと。

相原 筆者は現実空間にどういう意味を付与していくかっていうそこの争いについて書きたいようで、例えばデート中に携帯を見るなっていうのと、いやでも携帯の向こうの相手の方が大事だってあるじゃないですか。

夜空 そうですね、優先順位を決めなければならない、一種の政治的状況が個人個人にあるみたいな話にはなってましたね。まあその通りだと思いますね。

相原 いっこ今思ったのが、「アイデンティティとはなんらかの所与ではなく社会的承認という行為によって付与されるものなのである」というのがあったじゃないですか。それで、その社会的承認というのと親密性っていうのは一定リンクしてるものだと思うんですね。例えば、家族や恋人が認めてくれるとか、あとはツイッターでfavがくるとかもそうなんですけど、もしそのデート中に親密な彼女と一緒にいるときに、ツイッターで仲のいいフォロワーからダイレクトメッセージが飛んできたら、ツイッターの自己人格と彼女向けの自己人格っていう自己が分裂しますよね。それはちょっと個人的に面白いかなっていう。

夜空 それはでもあれですね、「役割間葛藤」というやつですね。会社にいるときに家族から電話が来たみたいな、のと同じようなことですよね。

相原 夜空さん、親密性の章ほかにどこ気になりました。

夜空 そうですね……。えっと、親密性の対象は自分で決定できるっていうことをいってるわけですよね。それは物理的に制限された空間ではなく、自分の意志のみで離れた相手でもなんでも、対象として設定できるわけじゃないですか。さっき「社会的承認が自己のアイデンティティをつくる」っていうところと重なるような気がするんだけれども、物理的空間をかたちづくる人間関係ってのは、ある一定の意味的な恒常性っていうのがある気がするんですよね。毎日、嫌でもいなくちゃいけないわけで。そうなってくると、そりゃ嫌かもしれないけれど、一定の刺激の振れ幅というか、自分の位置っていうのがある一定に落ち着くと思うんですけど、そういう物理的空間における自分の位置的な指標をまったくゼロにして、「自分で決めていくよ」みたいな気持ちでやっていくと、そのある種の人間関係の恒常性みたいなもの、いわば人間関係の摩擦力みたいなもんですよね。それをゼロにして自分でパッパッと決めていくってのは、そもそもの自分の位置(物理空間における意味の恒常性)を否定しているので、どこにも戻ってくる感覚というか、最低限の感覚を否定してるわけじゃないですか。それって、つまり親密な相手を自分で決めていくという一連の作業がうまくいかなかった場合に、拠り所がないので、帰る場所っていうか、着地する地点がない可能性があって、まあそれはヤバいのかなーみたいな。

相原 そうですね。やっぱり身体と物理空間ベースのなにかはあってほしい。

夜空 そうそうそう、そういう話!

相原 まあやっぱり身体つよいと思いますからね。この作者はなんか身体別にいいよ、みたいな感じですけど。いやあわたしやっぱ身体最後まで残ると思うなあ。

夜空 そうなんですよね。だから文脈的に言うと「見せたい部分を見せる」っていうのは「精神と肉体の解離」みたいな話になってて。だからいわゆる身体レベルの「見せたくない部分」っていうのを意識化に抑えこんでしまうにも繋がるかもしれなくて。そうしていくとさっきの「拠り所がない」ために、世間的に非常に分かりやすい「正義vs悪」みたいな感じになって、オッケー!とか言って、炎上させる側に親密性の居場所を求め……。

相原 現実感覚が希薄になり、非行に走る若者みたいな。

夜空 でもそれは非行じゃなくて、本人は「絶対にこれは正しいんだ!」みたいに思ってて。どんどんリプライとかで「ほんとにお前は非国民で~~」とかなんとか言って、それで連帯感が出てくるみたいな。

相原 あーあるやつや。

夜空 そこに連帯感求めていってしまうと、非常に分別がないというか。逆にね。精度が低いですよね。

相原 認知が歪むんだろうなあ。

夜空 だから身体とかですよ、問題は。自分の不都合な部分とかがあるわけじゃないですか。自分の嫌な自分みたいな。そこをあまりにも抑圧してしまい、正義だと簡単に判断した方に行ってしまうのは……軽率ですよね。

相原 う、もうちょっと聞きたいけど。極端な方へ、偏っていく。振り切れていくってこと?

夜空 極端な方へ偏っていく、振り切れていくっていうのは、要するに自分の意志が誘導されてるからじゃないですか。その人自身は自分の意志で言ってるみたいに思ってるけど、実際は、こうスッと誘導されてるみたいな場合があって、それは自分が親密なものを選んでるからじゃないですか?

相原 あー、なんとなく。インターネットって「検索ワードを探す旅」の話じゃないですけど、タコ壺化していくじゃないですか。自分の好きなものを選ぶから。島宇宙というか。まあ固まりますよね、似たような人種が。それで偏っていく。そういう話なのかな。

夜空 そうですね。僕の中でたぶんそれが親密性の話と重なったみたいな感じですね。だからその、元々の物理的空間だとか身体レベルの感覚とかを大事にしてると、ちょっと「摩擦力」がでるというか。自分の位置がなんとなく分かる。そこで歯止めが利くみたいなとこがあると思うんですよね。

相原 そうですね、そうだと思います。やっぱりウェブって、生活空間を搾取する・消費するってのどっかで書かれてましたけど、生活感覚みたいなものがネタ化されたり、擦り減っていく場所だから、そこに没入しつつ感覚を見失わないというバランスが、大変そうですね。

夜空 ノリつつシラけつつですね。

相原 まあ関係ないんですけど、前にFくんがノリつつシラけつつみたいなことを言ってたときに、彼がなんか日本にのれないからアメリカの方に移住しようかなみたいなことを言ってたんですよ。そしたらフォロワーに「Fはノリよりシラケの方に寄ってる人間だからアメリカに行ってもシラケの感覚が強いがゆえに、どこにも馴染めずに破綻するのでつらそう」ということを言われていて。あーってなりました。

夜空 かわいそう……。

相原 シラケってバランスを保つために有用なんだろうけど、シラケすぎるとそれはそれでつらいんだろうなっていうの思いました。完全に余談ですけどね。

 

<前半を振り返って>

 

オリンピック、超心配なんですけど

 

夜空 多孔化って生活空間に孔があくってことじゃないですか。ちがう情報空間が侵入してくるってことで。そこの情報空間ってひとつじゃないですよね。フェイスブックに、ツイッターに、あとマストドン……あれは趣味ごとにアカウントを別で取るみたいなやつで、pawooはピクシブ系、ニコニコ動画ドワンゴが運営してるやつみたいな、でそこでアカウントを別で取るから、もうちょっと固まった趣味の話ができるっていうもので、で、そうなってくるといくつもの自己像が複数同時に存在することになって、それは他者から見られることが前提なんだけれども、その他者っていうのがある制限された一か所じゃなくて、いくつかあるわけで、それはリスク分散みたいなことかもしれないけど、そうしたら極端に偏らないかもしれないですよね。いくつか別の自己像を持っていたら。

相原 そうですね。インターネットだけに偏ってますけどね。

夜空 それはしょうがないですね。

相原 わたし、あんまり読めてないんですけど、ハーバーマスがたしか生活世界の植民地化みたいな概念を出してたじゃないですか。それってわたしたちが日常的に生活する、ものを食べたり服を着たりとかそういう物理空間が、だんだんその資本主義によって経済システムに搾取されていったり、教育システムによって家庭から教育が自律して学校っていうかたちになっていったりっていうところで、元々生活世界の中で完結していたものが奪われて、生活世界が風化していくっていう話をしてたんですけど、ウェブっていうものがすごい流行って現実であったことをぜんぶウェブで言うようになる、ウェブシステムと仮に言いますけど、それが横行してそっちばっかりにかまけるようになっていくとどんどん生活っていう方が希薄になっていくっていう問題が、結構この作者は言いたいのかなあという感じが。

 ウェブでそのなんでしょう、自分でたくさん居場所をつくってそれでバランスを取るっていうのも、ひとつ戦略としてありだし正しいんですけど、そこで現実に解離してしまう、地に足がつかない、どんどんウェブの方に乗っ取られてしまう自分が、っていう問題をじゃあどうしていけるんでしょうね。二章が「ソーシャルメディアがわたしをつくる」っていう批判的なあれだったので。

夜空 そうですね。身体レベルどうするんですかって話ですよね。どうするんですか?

相原 どうするんでしょうね。ちゃんと丁寧な生活をしよう、みたいな?

夜空 あとは農業とかを頑張ろうみたいな。

相原 地域を大事にしようとか。

夜空 後半に出てくるかもしれないよね、それは。

相原 最後の方、地域を大事にしようって話しかしてませんからね、この本。

夜空 ちょっとやめよう。……でも、後半に続くのはそういう話か。身体レベルの回復の話になってくのか。そんな気もしますね。

相原 もういっそのこと、水に浮かぶ脳みたいな、電極が挿された脳みたいな、身体を失ってウェブ上に仮想身体をつくってしまえばよいのでは気がしてくる。

夜空 仮想身体……それはVTuberですよね。

相原 確かに。VTuberですね。いやでもVTuberは、仮想身体とからだがまだ感覚的にはまだリンクできてないから。

夜空 それはオキュラスリフトとかの話になってきますよね。VRとか。それはそれで違うんじゃない、身体拡張の話だから。

相原 違うかなあ、そうか。

夜空 自分の醜い部分をどう処理するか、みたいなことでしょう。課題は。まあ、そういうのが後半部での課題になっていくと。後半の第二部は「ウェブ時代の共同性」ですね。共同性をどのように復活させていくのか。

相原 共同性、復活してる兆しがあんまりないんだけどな。おかしいな、この本出たの何年だっけ。

夜空 いやでもオリンピックが控えてますよ。

相原 オリンピック、超心配なんですけど。

夜空 オリンピックのボランティアによって、共同性が復活するんじゃないですか?

相原 絶対やりたくない……、贈与によってこう……。戦争と変わんないじゃん。

夜空 強制労働ですよね。で、あれが就活の兆しとかになってく、みたいな話ですけど。

相原 あーつらい。それで「働いて笑おう」とか言ってるんだもんな。人材会社が。

夜空 そういうのとは別の方法でね、また違った共同性を模索していくわけですね、この本では。

 

<それから、雑なはなしへ>

創作か犯罪か、みたいな

 

夜空 VTuberってなにやってるんですか? あんま見てないんですけど。

相原 え、ンヌグムみたいなことしてるんじゃない?

夜空 ンヌグムは別枠でしょ!

相原 え? 別なの。

夜空 別でしょ。もっとキズナアイノーベル賞に関してなんか「ほぉ~すごいですね~」とか言ってるみたいなことしか、まあ知らないわけだけど。

相原 ですね。わたし、ンヌグムしか見てないからあと分かんないんですよね。

夜空 でも雑談とかをやってるんですかね。でもそれだと……だからニコ生とかで雑談をやってた場合、身体とか見られて「肥ってるじゃん」とかのツッコミとかが来てたわけだけど、その造形がああやって変わることによって、身体が上書きされるわけですよね。スッと抜け落ちてますよね。脱-身体ですよね。

相原 スッと脱-身体ですし、「見られたい私」にもなれてますし。「見たいあなた」でもいてもらってるし。でもインターネット上の距離の遠い関係性だと、相手のからだの汚いところとか見たくないんですよね。

夜空 でもそしたら違う人を見たらいいんじゃない?

相原 え? ああ、確かに。

夜空 整形とかの話に近いのかな。身体改造みたいな。……まあでもそういうのによって、自己のアイデンティティを求める根拠がなくなると危ないし、その傾向があるので注意しましょうみたいな感じ?

相原 分かる。注意していこう。

夜空 アイデンティティの根拠というか、そういう部分がなくなって逆に飛び抜けちゃう人もいると思うけどね。まあそれが創作とかにつながっていくとたぶん面白いんですけどね。

相原 あーいい方向ですね。

夜空 創作か犯罪か、みたいな。音楽とか絵を描くとかそういう風に自分を昇華していけたらね、いいんですけどね。一歩間違えると、危ないですからね。

 あ、なんかいま思い出したけどツイッターの「らぶりつ」とか……「らぶりつください」とかの話も。

相原 リツイートをもう一回すること?

夜空 いや、裏アカとかの話で。

相原 え、なにそれ。こわっ。

夜空 そういう界隈みたいなのがあって、自分の身体の一部をアップしたりとかしてるわけですけど、そういう話も第三章までのところで入れた方がよかったかな。

相原 あー入れてもよかったかもしれないですね。いまなんか、知らない知が来たっていう感じだ……。

夜空 でもそれは身体の話だからなあ。親密性とは関係ないか。

相原 いや関係あるかもしれないですよ。自撮りを送りつけることによる親密性というか。

夜空 まあでも出会い系みたいな感じなんですよね、あれって。身体感覚が希薄になってるっていう点ではそうかもしれないけど。

 

不可視に浸食する監視と管理、不安定な自我 vs 地域社会 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』③ - yozora_kのブログ

へ続く……)

第一回 社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』①

社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。

 

課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介NHKブックス、2013) 

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

 

 

夜空 今回この本を選んだ理由としては、社会学とかにふれたことのない人でも分かりやすい、導入的な側面を持っていること。そして、題材としても普段から親しんでいる、いわゆるネット社会とかSNSとかの問題に触れているという点で選びました。

 

〈第一部 現実空間の多孔化〉

<第一章 ウェブが現実を浸食する>

 

夜空 主にこの章で紹介されてる概念として、「情報空間」というのがあって、「デジタル情報技術によって物理空間に生み出された意味の空間」というようなことが言われていて、その中には①車のナビシステムや、②マーカー型AR、つまりセカイカメラとかの情報を空間に書き加えるものとか、あとは機械にかざすと浮かび上がって見える遊戯王のカードなどが例に出されてますけど、あと昔なんかアジカンのCD(マジックディスク)とかでもありましたけどね……

相原 ここは空間にその情報技術によって意味を上書きすることによって情報空間が現実空間に重なってくるという話をしてたところでしたっけね。

夜空 そうですね、空間に紐づけられた情報っていう括りのとこでしたね。だから、空間の意味を失うことなく、それプラス情報空間って感じですよね。で③に挙げられてるのがルイーダの酒場というふうに言われていますが、ドラクエの例で……まあ、ええっと、まあポケモンGOですよね

相原 うーん、なんでしたっけ、DSのすれちがい通信みたいな話でしたっけ。それですれちがい通信の場所で昔アキハバラビッグカメラの中かなんかが利用されていたけれど、そのユーザーがごった返して邪魔なので、ということでドラクエ冒険者が集まる酒場にちなんで、そのビッグカメラの外でルイーダの酒場という場所が設置されてそこで、すれちがい通信を行なうための場所ができたという。ドラクエのゲームをやってる人にだけ、その現実空間の一部が、その酒場として使えるようになった。その物理的空間に新たな意味が上書きされたっていう例でしたよね。

夜空 そうですね、だから場所自体の意味とは無関係に、その上方に情報によって割り当てられた空間として意味的空間が生じてますよね。

 まあそして図で書かれているので、言葉では言い表しにくいんですが(下の図)……。

 

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 で、その図を見て、思ったのは二章三章にいくにしたがって、これはあらかじめ先のことを言ってしまうことにもなってしまうんだけど、先のところを読むとSNSの話題が主だってくるのだけれども、この情報空間の三つのレベルのところはそんなに関係あるんだろうかっていう疑問が、あったんすけど、どうなんすかね。

相原 うーん、なくはないけどってところですね。飛ばしちゃったけど、「はじめに」のところで作者がこの本で言いたいことは、ひとつはウェブによって親密な他者との関係のありかたや考え方に変化が生じるということ、もうひとつはある空間の中に生きる人々が、ある社会の中に生きているという感覚を持ちづらくなるっていうことを言っていて、そのこの第一部だと親密性ってところにより重点をおいているので、あんまりその三つのレベルでウェブが入り込んできてっていうところからはちょっと遠いところはあるかもしれないですね。

夜空 まあ……ツイッターだと流れてくるから、こうひとつひとつのPOSTに別の意味があるから、その意味で空間の意味の上書きを意味しているようなPOSTが、あるといえばある……ですよね、だからなんかムービーとかになっててみたいな。

相原 例えばフェイスブックで友だちと「いいね」をこう頻繁にやり取りするためにネタになるようなカフェに行こうみたいなのも、空間に新たな意味を付与してるんじゃないですかね。

夜空 あーなるほど、確かに。そうかも。

相原 そのなんか空間の解像度が上がるのは、グーグルマップとかでよくありますし、上書きっていうのはちょっと難しいな。そんなに、いやあるんだろうけど……、でも聖地巡礼とかもそうですよね。

夜空 そうですね。

相原 そう、で、なんかそのわたしたちの生活っていうのは、この三つのレベル(解像度アップ・意味の付与・意味の上書き。上の図参照)である程度変化が起こっていて、その中で、親密性の変容であったりっていう問題も出てくるっていう感じなんですかね。

夜空 まあ、そうですね。親密性とかもあとで出てきますし、とりあえずこの図式(上の図)を頭に入れつつって感じで進めていきますね。

 それで、まあその先、ソーシャルメディアにおける政治的利用なども書かれているんですが、飛ばさせていただいて、次にユビキタスからクラウドへという話があります。えーっと、それで最後の方で、監視社会への懸念みたいな話をしてる部分があって、例えば僕のアイフォンとかでもそうなんですけど、写真を撮るとどこで撮ったかが表示されるとか、ツイッターでもツイートに位置情報追加とかね。まあ色んなものがありますね、Foursquare(現Swarm)とかね。まあそれで、そのデータ自体が管理され、監視されてるというような言い方もできるということで、それでちょっと面白かったというか気になった言葉が、「監視されたデータがその人自身のすべてだと見做されるようになる」(p55)ですね。だから、この私自身ではなく、それに基づくデータや記録やアーカイブスがその人自身であると。これも、データが自己を先回りする状態で、ある種の逆転が起こってるみたいな感じですよね。だからツイッターとかでPOSTしてることはデータなわけで、ほんとに身体感覚として自分が感じていることよりも、言語化されたものが自分であると見做される。主体もまたデータが自分自身であるという錯覚に陥るようなことがいわれてるのかなー、みたいなことを思いましたね。

相原 そうですね。うーん。

夜空 それに関連するかもしれないけど、最後に「現実のウェブ化」ってことで「ウェブが現実を資源化している」という表現がなされていて、まあ昔から言われるようなリアルとバーチャルの二項対立って話はもうできないと。これはご年配の方々に向けて言われてるんでしょうけどね。われわれにとってはもうわかってるよーみたいなところだと思いますけど。

相原 分かってるよーというより肌馴染みがしすぎてしまってるとこありますよね。

夜空 それ前提みたいなね。で、「ウェブが現実を浸食する」っていう第一章は流れとして、要点を掻い摘むとこういったことが言われているということですね。大丈夫ですかね。

相原 大丈夫ですけど、夜空さんめっちゃ硬くなってないですか? めっちゃ緊張してませんか?

夜空 いや、僕はもうね、ゼミで発表するときの手のふるえを思い出してますね……。とりあえず……ちょっと硬いですかね、僕?

相原 うん、硬いと思う。

夜空 ちょっと難しいな。

相原 和やかエピソードとかをすればいいですか?

夜空 和やかエピソード!?

相原 え、いま昨日買ってきた毛虫の糞のお茶みたいなのを飲んでるんですけど、なんかね、めっちゃ腐葉土みたいな味するんですよ。結構ふしぎ感覚ですね。

夜空 和んだところでじゃあ……。

相原 あんま和んでない気がするけど!

 

 

 <第二章ソーシャルメディアがわたしをつくる>

 

夜空 まあ、二章で一番グッときたところは「ほのめかしコミュニケーション」ですよね。

相原 あ、ツイッターでよくあるやつだ。

夜空 そうなんですよ。書いてあるのは「明確な結論や対象は曖昧だが、ネガティブな感情が婉曲的に表現された投稿」、そしてそのすぐあとに「キャンセル」がなされることがしばしばある。

相原 そうですね。そのツイッターとかでかまってほしいときに、「はあー疲れたー」ってだけのことを書いて、なにで疲れたかとか詳しいことを言わずにぼやっとしたほのめかしで、こう発信を行なうという。

夜空 エアリプとかとも書いてありますね。自己完結的な呟き……まあ、よくあることなんですけど。これは本書の文脈の中では「一貫した自己を演出し、物語ろうという仲間に対する差異化」みたいな、まあ自分語りみたいなことで、他の人とは違う物語の一貫性をアピールしていると書いてあって、それがいわゆる空気を読む的な同調圧力と葛藤しているみたいな話になってましたね。

相原 そうですね。ソーシャルメディア上ではその空気を読む圧力というのが、リアルよりも高いとこの本では述べられていて、なのでその空気を読みつつ、というのが大事になってくるんだけれども、そこでのこの「ほのめかし」という……、具体的に書かない。

夜空 そうですね……空気を読む圧力が強いんでしたっけ?

相原 p78の図に。

夜空 あっほんとだ! あ、リアル(対面関係)よりも、顔が見えない関係として、ですね。これはあれですね。どのように自分が見られているか分からないから……。

相原 どうとでも解釈できるようにしておくという。

夜空 再帰的モニタリングみたいな話になってて、だから相手からの期待が分からないから、常に先回りして自分を演出する。でもそれは根拠のないかたちでしか行なわれないので、他人に同調するのが安心できると。

相原 何も言わないのに何かを言いたいから、こう究極的に「にゃーん」とか言いだすあれですよ。

夜空 そう、その通りですね!

相原 「これはにゃーんなんです」みたいな。いやあ、まだ言ってるひといますからね。

夜空 あるよね、そういうの。

相原 それはつらいの「にゃーん」なのか楽しいの「にゃーん」なのかどっちなんだ。

夜空 それがたとえ分かっても、何も分からないみたいな感じだけど。

相原 「なにがにゃーんですか、恥を知りなさい」っていうのもあった。

夜空 それはヤバいよね、なんか。ほのめかしの否定、みたいなことでしょ。

相原 そうそうそう。

夜空 いいコミュニケーションだよね……。

相原 まあでもなんかその、ほのめかしをするしかないよねみたいな前提を共有している場でそれをやるからメタ的にギャグになるという。

夜空 かなり抽象度の高いところですよね。なんなんだろうなあ、あれは。ほのめかしがすでに前提となってるわけですよね……。

相原 夜空さんはほのめかしのどういったところに特に興味をもったんですか?

夜空 あっ、いや、なんかあるなーと思って。

相原 ある。分かる

夜空 まさに、しあわせはっぴーにゃんこみたいな話ですよねこれ。つらぽよ、とかね。

相原 ミーム汚染みたいな。

夜空 そうそうそう。あー、だからさあ、たとえばツイッターフェイスブックを比べると、フェイスブックの方が直接的に現実にあったことを報告するような雰囲気があるわけで、それよりはツイッターの方が、対象のないふわっとした(ほのめかしの生まれやすい)感じなのかなあ。

相原 (フェイスブックは)匿名性が低いですからね。

夜空 まあでもネガティブなことはあんま言わないんですかね。フェイスブックでも。言ってるんですかね。

相原 いう人もいますけど、これが俺だ!というのを自分の名前の責任で出さなければいけないので、あまりそのセルフィーが崩れるような、ペルソナ(仮面)が崩れるようなことはできないという……。

夜空 いやセルフィーは正しいですね。それはだって自撮りなわけでしょ。

相原 自撮りだね。

夜空 自撮りが崩れていくってのは、まさにその通りだね。

相原 だから、なんでしょうね。ツイッターの方が分裂症的なんでしょうね。その自由に崩してもいいから。

夜空 にゃーんとか言ってるもんね。にゃーんって来たらにゃーんって返すみたいな。謎のコミュニケーションが発生してるわけだけど。

相原 にゃーん、そうにゃんかーとか。わかるにゃんなーとか言ってますからね。

夜空 そうだね……だから、責任とかが発生しないかたちでの自分物語りなんすかね。

相原 そうですね。ツイッターはやっぱり逃避的に使う人も多いんじゃないですか。そのリアルの愚痴とか。

夜空 確かに。相原さんは、なんか二章で興味あったことあります? 僕は結構言っちゃった感じですけど。

相原 そうですね……、ソーシャルメディアのコミュニケーションはもはやコミュニケーションをとること自体が目的化しているって記述があって、それが面白いかなあとは思いました。p64に「もはや連絡を取り合うのではなく、絶やさずにいることが目的となっている」という言葉があったんですけど、なんていうか友だち地獄じゃないですけど、友だちと「いいね」を送りあったり、返信が返ってきたりっていうやりとりをすることでの連帯感とかがあって、それがゆえに連絡を取ること自体が目的化してしまい、ソーシャルメディア疲れとかがあるよねって話があって。

夜空 自足的ってやつですね。

相原 そう、嗜癖という言葉が使われていたんですけど、まあ健全ではないですよね。自閉的かつキャンセルとかほのめかしも、その道具として使われてますけど、コミュニケーション自体が目的化して増殖していくっていう。資本主義が貨幣の増産が目的化して本質を見失うみたいなのとすごいリンクしてますよね。

夜空 おっいい話。

相原 コミュニケーションにおいても、いままでにあった地に足のついた対面のコミュニケーションではなくて、ソーシャルメディアを介したようなコミュニケーション自体が目的化したやり方をしてしまうからそこにずぶずぶ依存していってしまうし、何のためにそもそも話していたのかが分からなくなってくる。なんかその虚無っぽさが虚無だなあ。

夜空 何のためとかないわけですよね。話してること自体が目的になっているから。

相原 そうそう、話したいことがないから話すために延々とその、ツイートして、ふぁぼがついて、リプライがついて、それにまたリプライを返してみたいなのが無限に続いていく。

夜空 どこで切ったらいいのか分からなくなっていく。

相原 だれかやめろっていう。そう、p69で「螺旋状の増幅過程」って言葉を使ってましたけど、「さびしさが無限に増殖していく」っていう。でもたぶんこれボーダーの女の子とかと同じで、いくらコミュニケーションしても充たされないタイプのあれなんだろうなあ。

夜空 まあ螺旋状なので、コミュニケーションしていけばしていくほどに、っていうことですよね。終わらないどころか、さびしさが増えていく。まあ……ツイッターに慣れてる人たちは、ふぁぼで終わらせるってやつですよね。とりあえずもういっかみたいな。

相原 正しい。

夜空 そういう振る舞いを人びとは身につけるべきだっていうことですね。どっかでこう終わらせる、ラインスタンプみたいな。

相原 まあでもこれ、ちゃんと相手がいて、なんか無限に増殖してるならまだいいですけど、自分で「こうかもしれない」「いやこうかもしれない」「でもそうじゃないかも」みたいなのを無限にやってると、モロイ(註:ベケットの小説モロイの主人公)みたいになりますからね。

夜空 あーなんかタイムラインがあると孤独をより煽る、孤立不安を煽る構造設計みたいな話もありましたね。こう、みんななんか言ってんのが見えるから、で、自分がいったこともすぐフローで流れていっちゃうので、参加してない感じが出てきますよね。

相原 それになんか一部、自分がワンオブゼムでしかないのが、露骨に見えてしまう。

夜空 まあでも、どうやったら勝ちとかもないからネタをパクツイしてふぁぼを増やしてく人とかも現れてますよね。

相原 ツイッターで解決策っていうのを言うのであれば、恋人ができたらツイッターを辞めるってやつじゃないですか?

夜空 絶対ダメでしょ。それ結局、そのときの魚拓みたいのを取られてて、その後破局したときに比較画像みたいな感じで上げられてネタ化されていく、地獄みたいな。

相原 監視社会じゃないですかー。やめましょうよそういうの。

夜空 それがまた人の目的化されたコミュニケーションの一部になっていくという。そういうので社会は回ってくみたいなね。

相原 みんな大変だな。平和に生きたいな。

夜空 やっぱ普通のこと言ってると駄目な感じなんでしょうね。人と違ったこと言わないとみたいな。前章で言ってた同調圧力と差異化の話ですね。

相原 ツイッターで過激なことを言ってふぁぼが来ると、もっと過激なことを言ってしまうあれですね。p93でありますけど、「他者に見られることを前提に、自分について書くことで他人から見られる自分を演出し、そのことで安定的な自己像を獲得している」というのがSNSでのほのめかしであるんじゃないかって言われてますけど。ソーシャルメディア上でも、一貫した自己というものを演出し、語ることによって自己イメージを安定させる。でもほのめかしによって、相手への応答というか、具体的にこう見えるでしょみたいな、反応を求めてないところがあるじゃないですか?

夜空 ああ、はい。

相原 自分はこうだよって決めつけて、ほのめかして出して、途中でキャンセルして見せず、それを繰り返していく。螺旋状に繰り返していく。自閉的な自己像がより再強化されていく。それでそこに依存するという。挙句の果てに、見て欲しいように見てもらえてるか不安とまで来ると結構もう病的な感じがしてきますよね。

夜空 見て欲しいように見てもらってるかどうかね……。ほんとに自己演出に長けている人はいいと思うんですよね。自分の宣伝に徹せられるひとは。

相原 そうですね。

夜空 そういう場としてももちろん使われてもいるし。元々自分の像がはっきりしていて、どういう風に演出をしていけばいいのか分かっている場合は、そのうまいこと、ほのめかしによってとかでアピールできる。けど一方で、そもそも自己像が確立されておらず、そこに巻き込まれるような状態で、螺旋状の増幅過程に入っていってしまうと、見てもらいたいように見てもらってるかの根拠がね、そもそもないので……。

相原 根拠がふぁぼとかになっていくとほんとうにやばい……。

夜空 そうっすね。ふぁぼですね。リツイートとかになってるわけですよね。

相原 こういうふぁぼが来るわたしが正しいんだなってなるのかなって。

夜空 そういうことですね。あの、だから、自分がアピールしたことであんまりふぁぼがついてないと、あっこれはわたしじゃないのかなみたいな。そっと消してく、みたいな。むしろこっちかーとか言って間違ってくみたいなことですよね。過激な方に自分を寄せていってしまうという。それはまあ、自分でつくってるわけではなくて、他人のこう野次馬的な興味、監視的なもの、あるいは珍しいもの見たさの視線において、持ち上げられてる部分こそが自分だと錯覚してしまう。ここに関してだけ言うと、ニコ生とかまあユーチューバーとかもそうかもしれないですけど、いわゆる警察オチと呼ばれるような。反社会的なことをやってまっせ、みたいなね。アピールがあるよね。そうするとちくわちゃんランキングとかがバーッと上がっていって。

相原 そうですね。

夜空 でもそうすると、ユーチューバーとかで見たんだけど、簡単な正義か悪かみたいな図式に当てはめるしかなくなってしまう状態になることもあって、自分の正当性をね。たとえば、お祭りの出店とかでひもくじを引いて商品があたるかもみたいな屋台があるじゃないですか。

相原 あるある。

夜空 で、それを売ってる分全部買って、実際に商品が当たるか検証するって動画を見たことがあるんだけど、で結局「当たりが入ってねーじゃねーか」ってことになってて。でも店主は「前の人が買ったかもしれねーじゃん」って答えてて、配信者が「でもこれってイカサマだよね!?」とか言ってて。だから、それって非常にこう極端な正義側に寄ってるけど、社会の中での振る舞いとしてはあんま正しくないんですよね。そこはそういうもんでしょっていうことが常識だったけど、そこに正しさの根拠を求めて行動していく。で、そこに視聴者が集まっていく。これってすごい分かりやすいかたちなんですよね。行動に収斂していって、それはいわゆる正義と悪の図式に当て嵌められるようなもので、すごく想像力的には貧しいものなんじゃないかってことは思いますね。

相原 なるほど、図式的に単純になって……見られるから単純になってるんですかね? それとも、現実世界の文脈から切り離されてるから単純になっていくんですかね?

夜空 うーん。見られてるからじゃないですかね。より多く共感が得られるし、それによって自我が強化されてるっていう循環があるので。だから現実世界でもそうだと思いますね。いまは、極端なかたちになってますよね、すべてが。

相原 まあそれでこの二章の終わりのところに書いてあった問題意識が、ソーシャルメディア上で認められる私と、現実空間にいまいる私というのの間に葛藤ができてしまうっていうのがあって、たとえばツイッター上のペルソナに没入しすぎてそっちが本当の私だ!みたいになってしまうと、当然それは反社会的な人とかはその現実空間にいる本人と葛藤ができたりしてしまいますし、それでそのソーシャルメディア上で認められる私っていうのが現実世界に入り込んでくるっていうのは、ある種空間の意味の上書きではないけれど、それに近いことが起こってる状態なんじゃないですかね。

夜空 そうですね。その通りですね。だからさっき僕が言ったのもそういうことを言いたかったんですけど、けどもっと言うならこれは空間の意味の上書きというよりいわば「私の上書き」ですよね。

相原 ひとりで上書きされてるね。

夜空 そうだね。

相原 この世界ぜんぶうそやねんて、ぼくだけがほんとやねんて。そういう画像が前回ってきましたけど。

夜空 いやあ、そうやって人は進化していく。いびつな成長を遂げていくってことですね。

相原 アンモナイトの異常巻きみたいですね。

夜空 え?

相原 知らないですか?

夜空 アンモナイト……。

相原 白亜紀だったかな。アンモナイトが絶滅する瞬間に、なんか貝殻の巻き方がぐしゃぐしゃになっちゃった時期があるんですよ。絶滅する寸前に環境に適応しようとして、そうなったらしいんですけど、めちゃくちゃなかたちに貝殻が進化しても、ねえ……全然環境に合ってないし、結局そのまま滅んじゃったんですけどね。いびつに進化してしまったんですよね。

夜空 それは……隠喩ですね。

相原 まあ、アンモナイトの異常巻きみたいな人がツイッターには多いですけど。

夜空 それはでも、そうしないとやってけないみたいな部分があるってことですよね。そういう空気というか。

相原 そう。過剰になにかに適応しようとした結果として失敗してしまうという、ね。対極的に。

夜空 アンモナイトがすべてを言い表してくれたって感じですね。

 

 (第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』②へ続く……)

 

 

『インターネットの神様』発売記念!「問題のある子」全小説レビュー❀

ぼくたちは疲れている。

クラスメイトのカーストや、両親との軋轢や、職場の人間関係や、ぼくたちに何事かを強いてくる様々な標識や、おびただしい情報の群れや、偽善や虚飾や見栄の張り合いや、恋愛の駆け引きや、切迫した経済事情や、わけのわからないやさしさなんかによって。

疲れていなかった頃のことはよく思い出せない。

葛藤や、逡巡や、ためらいや、親密な吐息遣いはもはや遠ざかってしまった。

そんな人たちこそ読んでしかるべき本を紹介しようと思う。

『問題のある子 ――インターネット大倫理文学第2巻』青本舎)である。

☆ここから購入できる

https://fukuso-sutaro.booth.pm/

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0「黒表紙、あるいは暗がりに見捨てられた一匹の猫」

黒い装丁のこの本、表紙には、黒い空間にぽつんと猫がいる。

眼鏡をかけているぬいぐるみである。

ぼくはそれをドルバッキーだと勝手に思っている。

そうすることによってこの冊子の通低しているテーマがはっきりと浮かび上がってくるような気がするからだ。

キレイゴトがなにより嫌いなドルバッキー。

世の中の真理を見抜く猫。

バッキー!バッキー!ドルバッキー!である。

暴いておやりよ、ドルバッキー!にゃー!である。

 

だけどドルバッキーは単に断罪して回る正義感にあふれた猫なのではない……実は、ご主人様に喋らされているただのぬいぐるみなのである……。ご主人様は果たして正義感だけの人間であったか? 猫を操って本気で世直しを考えていたか? ペテン師は猫と主人のどちらであったのか? この二重構造自体もこの冊子に響いている重要な通奏低音なのではないか。そんな気もする。

 

 

 

1「問題のある子」

前巻(『グッバイグーグルアイ、イ大文1』)では冒頭にあたる部分にあった複素数太郎の小品(境界線上の男)はない。

あれはひどく出来栄えのいいものであったのに非常に残念である……

…………。

しかしそれは杞憂に過ぎなかった!

杞憂に過ぎないことがあると分かると、ひとは嬉しくなるものだ。なぜなら失望しかけていた事態について、失望する必要がなくなったからである。こういうとき、ひとは決まってほっと胸を撫でおろすのだ。珈琲を淹れてしまうかもしれない。

 

ところで、今作では「問題のある子」と題された庄司理子のイラストがあり、複素数太郎の散文詩が載せられた作品が掲載されている。

イラストの中心では、ひとりの鉢巻きをした受験生が机に向かっている。バックは重力をなくした空間で、制服や上履きが宙に浮いたりひっくり返ったりしている。教室かと思えば、受験生の足元には亀裂が走り、風景の全体にはブロックノイズが走っている。そこで「楽になりたい」と受験生は願っている。受験生が待っているのは、合格通知でも不合格通知でもない。いつか訪れるであろう、〈全自動よくがんばったねマシーン〉の到来を、崖っぷちで彼は孤独に待っているのである。

 

合作であるにもかかわらず、ひとつの作品として非常に完成度が高い。急速に四方八方に飛散していくエネルギーをもつ複素数太郎の文章を、軽いタッチの、しかし緻密で想像力の広がりを感じさせるイラストがふわりといなすようにつなぎとめている。

「問題のある子」、これは秀逸で、アイロニーの利いた、小品でありながら傑作である。

複素数太郎は庄司理子という協力者を得て、またもや心底を抉り取るような怪作を創り上げた。

 

2「冷たい丘」(佐川恭一)

伊藤くん、死ねば何もかも消えてしまう、そのことをゴミのような君は喜ぶべきなんだよ。

 

小学生の話で、永遠への恐れや、やさしさの押し売りといったものがテーマになっている。さほど長くない文量ながら、小学校の教室の陰気な気配が立ち昇ってくる密度をもっている。

この話は主人公、親切にしてくれる女の子(北村さん)、死ぬのが怖い伊藤くんの3人がメインに展開される。途中主人公の意識が錯乱する部分があり、そのことがある種明瞭に示しているのかもしれないが、とにかく人の中には〈永遠への恐れ〉、そして〈日常が永久に続くことへの信頼〉というものが矛盾しながらも併存しているのではないのだろうか。その二つはすぐに分けられるものではなく、ぼくたちの心のなかで沈澱し、ふとなにかのきっかけで浮上してくるものなのではないか。ぼくは、敢えてぼかしていうとするならば、主人公の永久への恐れと伊藤くんの死への恐怖は表裏一体で、非常に近い位置にあるものだと思われる。

善悪を小学生が判断することによって陥りがちな思考の偏重(白か黒かの二択)を、技巧的な部分に加え、実感を込めて描いた作品である。

 

3「キッズワイヤレス」(相原佳子)

時間は常に、そして徐々に、チーズのように硬くなっていってしまう。

 

三頁にわたる散文詩のような文章である。作中のイメージにも重なるが、この作品自体が、泳いでいるような、海藻が光の射し込む海底に揺らめいているような印象を受ける。

 

退廃的な描写のなかに力ないまなざしが風景を映し取っているのが分かる。「わたし」は〈なにもない場所〉と〈なにもかもがある場所〉の狭間のエアポケットのようなところにいて、どちらにも行ってはいけないと自分を制し続けている。抑制し続ける思考は、欲望のダイナミクスを削ぎ落されてしまっている。

だから「わたし」のまなざしは、いたって静的に空想し続ける。

現実味を欠いた分、より現実的な視点で物事を見ているのかもしれない。

風、砂、余白の泡。世界はそういったところに宿っている。 

 

4「言葉は羽根をもつ」(水宮うみ)

どうした? 白熊見たいか?

 

 これはポップな感じのする明るい作品だ。〈羽鳥島〉という、人間は羽を生やして空を飛ぶのが当たり前の島で、唯一羽を生やしていない「僕」が主人公である。「僕」は羽が自分だけ生えていないのをコンプレックスに、日々を過ごしていたが、島本朝という女の子に「言葉の羽」を授かる……。

 言葉が羽根を持ち、空を自由に飛び交うさまをあなたは想像できるだろうか。この歓びは創作に携わるひとのみならず、誰でも日々生活している者ならば身に覚えのある感覚に違いあるまい。大切なひとと心を通わせるとき、もちろんそれがすべてではないにせよ、言葉は重要な役割を果たす。羽ばたける言葉もあれば、墜落する言葉もある。いかなる複雑な事情をも乗り越えて、相手に飛び立つ言葉、それを受け取ってもらえたときの歓びは、足が地上から浮遊しだしたような、まるで「浮足立つ」といったものなのではないか。

 詩は言葉、小説は言葉、さりとて日常会話も言葉だ。

 言葉に羽根を宿らせられるかどうか、それはあなた自身の勇気にまつわる問題だ。

 

5「三百円」(四流色夜空)

もし、もう一度やり直せるとしたら……、私たち、また一緒にいられるかな。 

 

 これは拙作なので詳細は省くことにするが、ひどく物事を単純化して言うのなら、ネットカフェで三百円足りなかった男が、女の子に脅されて京都を彷徨する話だ。テーマは子供。

 

 前回の「光の空降るエンドロール」(『グッバイグーグルアイ』に収録)が新しい手法で自分なりにはそこそこ成功したので、今度は一転ウェルメイドなもの(リアリズム)を書こうと思ったのである。文量的にもちょっと長いと思われるかもしれないが、かつて大学時代に書こうとしていた形式を用いて、ぼくのいま持ちうる技術でどこまで書けるのだろう、と思い、そして書いた。

 ちなみに次作ではアンチ・ロマンをテーマに据えたため、「三百円」とはまた作風が変わっている。

 

6「私の終りとハートブレイク・ワンダーランド」(藤井龍一郎)

わたしはそれをどうしようもないほど悲しく思いました。どうしようもないほど幸せだったからです。

 

 世界最強の魔法使いを父親に持つ女の子が空飛ぶ城に乗って、世界一周旅行に出るというのが物語の始まりである。この作品は七頁に渡るが、おおまかに四つのシークエンスに分けられる。出発前の親子にまつわるパート、出発後の火の悪魔と女の子との掛け合い、不時着後の(旅で会った仲間である)リュウ・クラウス・ベロニカとの事件、そしてエピローグ。

この四つのパートはそれぞれ短い文量で書かれているのだが、それにもかかわらず、読んでいるうちにその世界観が容易に想定できるような書かれ方をしている。作者の伝えたい部分が、読者に伝わる上で、無駄な部分を一切削ぎ落してる。だからファンタジー調の突拍子のない設定でも、説明不足な箇所が垣間見えても、読者は魔法使いで父親に憧れる「わたし」に共感して、物語を読むことができる。

そして終わり方、さっきはエピローグと呼んだパートだが、これは簡素な文章ながらはっきりヴィジョンが網膜に再生される悲痛なラストである。

 

7「破いて、ツインシュー」(かみしの)

またこんなところで海を見てるんだ。 

 

 これはふたりの女子高生の話だ。

 ひとつ前の藤井氏の作品でも映像的な部分があるという話をしたが、本作を読んでいると実際にレイトショーでやる自主制作映画でも見せられている気分になる。

というのも、ある種の世界観がきっちりと構築されているのだ。それは現実の生活世界との軋轢から生じたものかもしれないが、もう完全に女の子は別の世界に生きて、会話をしている。それは出来の悪い果敢ない妖精の逃避行のようにも見える。

 ぼくが好きなのは、「セックスしてみたい?」という一方の女の子の問いかけに主人公が黙り、その女友達が自分で答える、という場面だ。女の子の答えはこうだ。「わたしはしたくない。だって、わたしはわたしだけで完璧なのに、どうしてわざわざ不完全になるの?」

 

 象徴的行為、というのがある部分で取り沙汰されているが、それがこの作品のテーマでもあるのかもしれない。特別になれなかった普通の人間は、象徴的行為という業を背負っている。象徴的行為を求め、行為してしまうこと自体に怯えてしまう二律背反。パラノイア。読者であるぼくは「それはそのもので美しい」という考え、ある種、悉有仏性的な価値観でも生きている(あるいはそう自分に言い聞かせ、誤魔化している)ので、そのパラノイアの泥沼にはあまり嵌り込まないのだが、しかし本作にはそれを実感させる力量がある。象徴的行為に憑依されるのは現代的でもあるのかもしれない。それは自己顕示意欲を助長する各種のSNSであり、まあこんなことはだれでも言ってるから省くとして、いずれにせよほとんどの人間がそれに対して無自覚であるのは事実である。

 象徴的行為に拘泥する少女ふたりの痛みも、それで彼女たちがなにを決心し、なにを遂行しても、それはただしいのである。それは彼女たちなりの真摯さだ、誠実さだ、生きていく実感だ。それが間違ってるなんてことは、絶対に、ない。

 

   ※

 

 と、いうわけで小説レビューしてきたが、本冊子には小説のあとにホリィ・セン氏による「暴力の宛先」というエッセイ、複素数太郎氏による「数学と思想(一)」などが掲載されているが、ぼくができるのは小説の紹介・レビューくらいなものだ。そのほかは手に余る。ぼくの能力に余る。実際に読んでみて欲しい。ちじょこ氏やしずまうに氏のイラストはとても感覚に訴えかけてくるものがあった。イ大倫3ではしずまうに氏は参加していないのだろうか、あの方のイラストは結構好きであった。また同じ巻に載ることを期待している。

 

   ※

 

今週9月9日に大阪で文学フリマ が行なわれる。そこではインターネット大倫理文学の三巻『インターネットの神様』が頒布される。ブースは青本舎(H-19)だ。そこにもぼくは寄稿させていただいているのだが、ぼくの個人誌『ポップ & エンド』も委託させていただく予定だ。

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boothからも購入可能だが、会場に赴いた方は是非手に取ってみて欲しい。夜空100%の作品集であるから。

booth: https://yoruiroyozora.booth.pm/items/665168

 

 

 

『ポップ & エンド』通販開始

個人誌が完成しました!

題名は『ポップ & エンド ――四流色夜空作品集 vol.1』

《――これはだれがなんと言おうと、ぼくの孤独の結晶です。》

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小説を三作、短歌を六連作収録しております。確定事項ではありませんが、おそらく京都の文学フリマに出店するどこかのブースに委託販売する予定なのですが、自宅にもうブツが届いているため、先行販売をすることにいたしました。前回の『Flippant Segment』までも一緒に冊子を作って来てくれたイラスト陣に加え、新たなメンバーを加え、この冊子は完成しました。

 短歌は解釈の多様性に富んでいます。文字はさまざまな想いを運ぶことでしょう。

これは僕の存在証明のようなものだが、あなたの道具でもある。ぼくの文字はあなたを映す。どうぞ手に取ってみてください。

 

 <内容紹介>

表紙(海辺の墓地 @umbnbc)

1.カラフルという色           (扉絵:浴蘭坂もか @strawberia_)/tanka
2.コンサマトリー・グラジュエイション   (扉絵: ぬふっ @__nuhu) /tanka
3.クラクション              (扉絵::左野ナオイ @naoooi) /novel
4.ハイウェイ・ロード         (扉絵:米沢チャイナ @motor_hotel)/tanka
5.また会えたらいいねなんて思ってもいないことを言おう

                    (扉絵:米沢チャイナ)/tanka
6.卵を落とす              (扉絵:りりぃ @_pnpn_)/novel
7.読み込み中のインジケータ       (扉絵:海辺の墓地)
8.青い太陽               (扉絵:相原ユキ @sagamihara_0)/novel
9.POP&END             (扉絵:ぬふっ) /tanka

 裏表紙(左野ナオイ)

 

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購入希望の方はBoothにてお買い求めください。

booth.pm

 

あるいは、dead.jamais.vu@gmail.comまで、欲しい冊数を明記の上、ご連絡ください。

本体価格:800円 送料:300円

(※送料には配送料の他、梱包材等の費用が含まれています。)

  

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