勝利への初段階~~夕立のなかへ歩む男~~ エレファントカシマシ考


ボーカル宮本を擁する日本のバンド、エレファントカシマシは、現在を後期と捉えると、初期・中期・後期と、大きく音楽性を変化させてきたグループである。

エレファントカシマシ | アミューズWEBサイト
初期の骨太のギター・ロック、中期のメロディアスなサウンド(ポニー・キャニオン時代以降)、そしてそれらを綜合したような現在のポップさが前面に出た音づくり。聞いてて驚くほどに変化しているのは、なによりその音楽性だ。

だが、ここでは歌詞に注目してみることにする。取り上げるのは、2曲ある。雨というモチーフが共通していることを受けて、「夕立をまってた」(エレファントカシマシ5 1992)から「季節はずれの男」(俺の道 / 2003)への歌詞の上での思想の変化を見てみようと思う。

 

エレファント カシマシ 5

エレファント カシマシ 5

 

1992年リリースの『エレファントカシマシ5』収録の「夕立をまってた」は、こう始まる。

 

ままにならない俺の、俺の人生よ。
やることがぜんぶ取ってつけたような。


そこで歌われているのは、気忙しい日常にたえず煩わされ、なにか気分を一新してくれるようなことを探しながら、しかし、かといって特に見当たらないから、せめてもとベランダで夕立を待っている男の情景である。
ここには初期の歌詞に特徴的な、「なにかに専心したいが、特になにも見つからないもどかしさ」というテーマが見られる。ここだけを切り取ると、まさしく『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦 / 2001)のようである。それは生活に引き摺り回されながらも、現実のリアリティを見極めようとする態度だ。現実のあらゆることが無意味で、虚無で、暖簾に腕押しだと、分かっていながらも、何か手応えを見つけ出そうという足掻き。
終身雇用制度の崩壊や地域社会の解体がなされ、それによってもたらされた過酷な生の宙吊りをなんとかするために、一種のムーブメントが盛り上がる。それは個別具体的にはさまざまな形を取るだろう。90年代には、それは天皇リストカットや宗教やロハスという形で行なわれた。ゼロ年代からはギークハウス、Facebook、アイドル文化によるオルタネイティブな中間共同体の復権がなされ、現在では、ソーシャルゲームと筋トレに回収されている。(浅田彰的に言えば、ソーシャルゲームはスキゾ、筋トレはパラノ的振る舞いに当たるだろう。)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ(2001)では、終わりなき日常(宮台 / 1995)の超克への願いに呼応するかのようにチェーンソー男が現れる。だが、それよりもほぼ10年前の「夕立をまってた」にそのような回答は用意されていない。ただもどかしい思いだけが吐露され、ひたすらに苦しい。

 

ああ、心は駆けるよ
なにかやることはないだろうか

ああ、今日は暑い、暑いと夕立をまってた
ベランダに立って、夕立をまってた

 


心はなにかを求めている。にもかかわらず、それがなにかは分からない。ただ空の色が変わり、朝が夜になり、夜が朝になる。時間の経過をただ傍観し、決してそこに参入できない自分の無力さ......。
「過ぎゆく日々に、きみはなにをしているだろうか」というコピーのつけられた『エレファントカシマシ5』には、この【漫然とした日常に対するもどかしさ】というテーマは顕著である。のみならず、初期の楽曲という広いスケールで考えても、生活の閉塞感というテーマは基調となっていると考えてよいだろう。

エピック・ソニーとの契約が切れ、ポニー・キャニオンからアルバム『ココロに花を』(1996)を発表した頃からをバンドの中期にあたるとすると、「季節はずれの男」もその範疇に入る。(ちなみに当時のレーベルはポニー・キャニオンの後に移籍するEMI。)初期の無骨さに彩りが加わることになる。鋭いギターの音色が重く物苦しく鳴っていた初期の曲調も、やがてビートを刻みだし、地上から浮き上がったようにずっとポップでメロディアスなものになり、タイアップも増える。その音楽性に注目が集まる一方、歌詞にもかなり大きな変化が見られるようになる。現在のエレファントカシマシにおける重要な核である【勝つ / 負ける】という概念の導入がなされる。

 

俺の道

俺の道

 

2003年リリースのAL『俺の道』に収録された「季節はずれの男」にはこうある。

 

雨のなか、俺は遠くへ出かけよう
またひとつさよならを言おう

俺は勝つ、真面目な顔で俺は言う
俺は勝つ、俺の口癖さ

 


ここにはただ漫然と過ぎる生活に打ちのめされ、ベランダでひとり夕立が降ってこないかと見上げる男はもういない。おのずから雨のなかへ踏みゆく人間の姿がある。これより多くの曲に頻出することになる【勝つ / 負ける】とは、いったいどのような概念なのだろうか。そして「季節はずれの男」が勝とうとしているものは何か。

曙光、奴隷天国から分かる通り、宮本の思想にはニーチェが大きく関わっている。宮本の言う【勝利】とは、ニーチェ的に言えば、肯定の言葉、それも永劫回帰を肯定し、既存の秩序を破壊せしめるYESにあたるだろう。生活の重圧に押し潰されたまま、苦痛を耐え凌ぐのではなく、むしろそれを何回でも引き受けること。
90年代から散見されてきた「生の宙吊り」に対する宮本の回答がこれである。90年代における世紀末的な作品群から、にわかに勃興する空気系と呼ばれる作品群への移行。らき☆すた(2007)、けいおん!(2009)、ゆゆ式(2013)は明らかに運命愛の星のもとにある。放課後ティータイムによる楽曲「Unmei♪wa♪Endless!」の歌詞にはこうある。

 

生まれる前から出逢ってたんだよ
生まれ変わってもきっと出逢えるよ
そんな幸運に感謝して
銀河一 大きな愛目指すよ


フリードリヒ・ニーチェ平沢唯に憑依する偉大な瞬間がここにある。

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隣人を愛するのではなく、運命を愛すること。空気系における終わりなき日常の克服の作法と、宮本の態度は接近しつつある。生活を肯定することで生活の奥にあるものを掴もうとすること、虚飾を払い落とし、限りある生命力をどこまで発揮できるかということ、「まんがタイムきららになる」ということ。【勝ちにいく】とは、泉こなたになることであり、平沢唯になることであり、野々原ゆずこになることである。

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ひたすら受動にとどまっていた宮本の態度が、ここで一変する。立ち止まり、運命の苛烈さを甘受する以上に、騒がしい世間の方へ歩き出す。何にも増して自分自身の弱さを克服するために。重要な転換点が、この【勝つ / 負ける】という価値観の導入にはある。デビューアルバム収録の「ファイティングマン」から通底していた【戦う】姿勢がここで初めて、はっきりとした実存の様式として実を結ぶ。宮本は生活を引き受けることで、超えようとする。「こころのままに生きてこその生活の肯定」、それこそが「戦う男」の目指すところ、勝利の条件である。

 

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そのため、特定のだれかに【勝つ / 負ける】ということではない。それはライフスタイルであり、生き様や生き方に関係したものである。

敢えていうならば世間や歴史のなかで、破れゆく定めや、移ろいゆく気分のさなかで、1人立つこと。克己心を持って、あらゆるスケールの過酷さのなかで、喜びに向かって歩いていくことと言える。

惰性で生きるしかない退屈な毎日を、肯定し、その能力があるかどうかなどは度外視する。ただ直観として「俺は勝つ」ことを信じる。なし崩し的に似非平和を過ごさざるを得ない時代にあって、その態度は【季節はずれ】に映るかもしれない。

 

歳月がにじむ怠け者
季節はずれの男よ、ひとり歩め

言い訳するなよ
おのれを愛せよ
鳥が飛ぶように俺よ生きろ
ライバルでなき友よさらば 


ままにならない、と言い、のたうつ過去の自分に「言い訳するな」と喝を入れるひとりの人間が雨に打たれている。ひとりよがりの自尊心を携えて、昨日までのおのれを律し、超えようとする。平沢唯へ至る道は、あまりにも険しい。あまりにも多くの犠牲を供することになろう。惰性を律するということ。惰性に曇らされた現実を直視し、ありのまま、強大な世界へ、凄まじい向かい風に髪を靡かせながら相対することを決断するということ。それが勝利への階段の歴史的な第一歩である。

 

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