ウェブ社会での親密性、見せたい私の承認問題 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』②
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社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。
課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介(NHKブックス、2013)
ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)
- 作者: 鈴木謙介
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2013/08/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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<第三章 ウェブ社会での親密性>
……じゃあフォロワー全員が赤ちゃんロボットかもしれない、っていう話ですか?
夜空 メディアっていうのは空間に制限された意味とかに孔を開ける。情報空間という別の空間と接続してしまうことによって意味が流入してくる、というような流れで話が進められております。
相原 そうですね。分かりやすく前提を言うと、近代以前はやっぱり空間と時間に関して言うと、空間はやっぱり距離的な制約がかなりあったし、時間はいまみたいに時計で均一化されていなかったんですけど、それが近代になって地図ができ、空間の移動手段が発達し、距離が縮まってしまったという背景があると思っていて、それでインターネットが最大の打撃というか、距離をほとんどゼロにしてしまった。時間的な差異もなくしてしまったというのもあって……。だからこれポストモダンとかの話に近いんですかね。んー物理空間の特権性がなくなってしまったよねっていうのをこの作者は言いたがっている。
夜空 この章の中で親密性というのが概念として主だって取り沙汰されているんですけど、親密性は前近代社会においては制度化のものであって、「近接性」(近くにいること)がイコール親密性だったと。これが「構造的役割」と書いてあったけれどもつまり制度的に与えられていた。それが後期近代になると、制度による空間、つまり制限された物理的空間が崩されて、さっき言ってたように距離をゼロにしてしまうものになる、ということですね。
相原 制度ということは曖昧ですけど、やっぱり近代以前の社会ってのは地縁か血縁に縛られる社会でしたし、それこそ移動手段もいまよりもっとレベルの低いものだし、生活の道具によっても制限されて、組織化された社会であったというのは間違いないので、伝統的な、慣習的な社会というのは地縁・血縁とかに束縛されてたんだろうなあと思います。
夜空 そうですね。それで、さっき言ったような構造的に決められた親密性から、制度じゃなくて自分の意志で親密なものを決めていくっていう。なんかお見合いから自由恋愛へみたいな話かなと思ったんですけど。
相原 そうですね。プライベートなふたりだけの関係性、純粋な親密性が築かれていくっていう。
夜空 後期近代って枠だったけど更にウェブ社会においては、自分の情報を自由に書き換えられるので、見せたい相手に見せたい自分を見せることができるわけですね。二章で出てきた「見てもらいたいように見てもらってるか」という不安があるけれども、その裏返しみたいな感じですよね。「見せたい相手に見せたい自分を見せる」ことは可能であると。それらは裏表の関係にある。
「近接性」(距離的に近い)っていうのが親密性だったけれども、物理的距離は関係なく、だれでもその対象になりうる。そして選べる、ということですよね。自分が「見せたいものを」見せるのを許可した相手に「親密」というラベルを貼ることができる。極端な例として、この本では相手が人間でなくとも可能であるという例を提示していて、ある種のコミュニケーションが取れているかどうかが判断できれば、再帰的モニタリング(自分がどう見られてるか、相手の予期を先回りする)のが癖になってるので、相手が人間でなくとも親密な感情が生まれてくる。その例に挙げられてるのが「ラブプラス」とかなんですよね。で、アメリカの「ベイビー・シンク・イット・オーバー」っていう赤ちゃんのシュミレイターロボットも例に挙げられてるわけですね。この人形は学校の授業で使われていて、赤ちゃんのような作りの人形なんですが、不定期に泣き声を上げるんですね。泣きやませるためには背中に鍵を挿し込んだまま、所定の姿勢で抱いていないといけない。泣きやむまで抱かなければならないこのロボットの世話に懲りて、自分はまだ子供を持つ資格がないと感じるようになる、という教育上の意味も持っているんですが、親密性の問題にもかかわってくるんですよね。だってロボットが自動的に泣いてたりしたら懲りたりする必要なんてないからね。それをひとつの人格と見做してしまうような錯覚に陥るってことでしょうね。ラブプラスと一緒で。
相原 そうですね。これは「ほのめかしコミュニケーション」とちょっと似てますよね。ひとりできちんと振る舞ってしまうという、相手が見えていなくても。期待した反応すら返ってこなくても、そこになんらかの意味を見出してコミュニケーションを取ろうとしてしまう。それでそこに没入するんですよね、このラブプラスの例を出してきたところは特にですけど。
夜空 没入していく……。泣くとか喜ぶとかいった画面上の反応も、これは次にこういう展開を導くための伏線に過ぎないというかたちで理解できてしまう。すべてをフラグとして見做してしまうという。
相原 ラブプラスやったことないから全然分かんないですけどね。
夜空 これはでも、要するに「徴候」ってことですよね。ウェブ上のコミュニケーションにおいても、あらゆるところに「徴候」を読み取ってしまうというのは、あると思いますね。
相原 あとはその、p105あたりで「アイデンティティとは所与ではなくなんらかの社会的承認という行為によって付与されるものなのである」とか結構わたしはそうにゃんなーって思いました。アイデンティティってこう、自己定義とかそういう言葉に置き換えられると思うんですけど、自分が何者かっていうのは、外から見えるデータのようなもの、つまりそれは所与ではなく、見られることでfavをつけられることによって付与されることなんですよね。
夜空 でもどうなんですか、favは社会的承認なんですか?
相原 社会的承認なんじゃないですかねー。
夜空 そんな……、いや、そういう見方もできますね、もちろん。
相原 だからこうラブプラスとか赤ちゃんロボットから反応が返ってくると、favが返ってくると、そこで「これが俺だ!」と「この承認されたわたしがわたしなんだ!」という自己認識が生まれて、自己が最強化されていく。
夜空 そうですね。だから相手が赤ちゃんのロボットである場合も……じゃあフォロワー全員が赤ちゃんロボットかもしれない、っていう話ですか?
相原 ああ、そういうことも言えるかもしれないですね。なんというか、「アイデンティティを社会的承認によって得る」というのは至極普通の話で、別に病的な話でもないと思うんですよ。ただそれが適切なコミュニケーションを「精度の高い」状態で他者と取れてるという感じなので、相手から「いやでもそれちょっと違うんじゃない?」とか「それめっちゃよかったよ」とか言われて、「あっこれでいいのかな?」「あ、やっぱだめだったのかな」っていう微妙な修正をしていくっていう作業をだれもがやってると思うんですけど、自分がどうあるべきかっていうことにおいては。それがなんか当てにしてる他者の反応が嘘であったり、赤ちゃんロボットのツイートbotであったり、そういうものの反応を当てにしていると、こう野次馬みたいなおじさんとかこう精度の低い反応を当てにしてしまうと、ヤバいことになっていくし、インターネットはそういったことが起きやすいので。
夜空 「見せたい部分を見せる」っていうのと同じようなレベルで「見たいところを見る」わけじゃないですか。そうなっていくと、まずいかもしれないですね。
相原 偏ってもいきますし、人間関係嗜癖みたいなかたちにもなりますよね。そう、「見られたいように見られる」てところに没入して、強迫的にそれを繰り返していくっていうことは、当然不健全ですけどね。
夜空 まあでも、ネット上でなにが精度が高くてなにが精度が低いっていうのは、ある程度の自己判断基準がないと難しいっていうか無理なので、だから危ない人に引っかかってしまう可能性とかも出てきますよね。当たり前ですけど。
相原 そうにゃんなあ。……第三章って役割の話もしてましたよね。
夜空 ありましたね、役割。
相原 デート中に携帯を見るなって話ですね。
夜空 けど、携帯の相手の方が大事かもしれないよって話でしょ。本の結論的には。
相原 まあデート中に携帯を見るなよって思いますけどね、わたしは。
夜空 携帯見るくらいならデートに行くなよって話だよね、逆に言うと。
相原 筆者は現実空間にどういう意味を付与していくかっていうそこの争いについて書きたいようで、例えばデート中に携帯を見るなっていうのと、いやでも携帯の向こうの相手の方が大事だってあるじゃないですか。
夜空 そうですね、優先順位を決めなければならない、一種の政治的状況が個人個人にあるみたいな話にはなってましたね。まあその通りだと思いますね。
相原 いっこ今思ったのが、「アイデンティティとはなんらかの所与ではなく社会的承認という行為によって付与されるものなのである」というのがあったじゃないですか。それで、その社会的承認というのと親密性っていうのは一定リンクしてるものだと思うんですね。例えば、家族や恋人が認めてくれるとか、あとはツイッターでfavがくるとかもそうなんですけど、もしそのデート中に親密な彼女と一緒にいるときに、ツイッターで仲のいいフォロワーからダイレクトメッセージが飛んできたら、ツイッターの自己人格と彼女向けの自己人格っていう自己が分裂しますよね。それはちょっと個人的に面白いかなっていう。
夜空 それはでもあれですね、「役割間葛藤」というやつですね。会社にいるときに家族から電話が来たみたいな、のと同じようなことですよね。
相原 夜空さん、親密性の章ほかにどこ気になりました。
夜空 そうですね……。えっと、親密性の対象は自分で決定できるっていうことをいってるわけですよね。それは物理的に制限された空間ではなく、自分の意志のみで離れた相手でもなんでも、対象として設定できるわけじゃないですか。さっき「社会的承認が自己のアイデンティティをつくる」っていうところと重なるような気がするんだけれども、物理的空間をかたちづくる人間関係ってのは、ある一定の意味的な恒常性っていうのがある気がするんですよね。毎日、嫌でもいなくちゃいけないわけで。そうなってくると、そりゃ嫌かもしれないけれど、一定の刺激の振れ幅というか、自分の位置っていうのがある一定に落ち着くと思うんですけど、そういう物理的空間における自分の位置的な指標をまったくゼロにして、「自分で決めていくよ」みたいな気持ちでやっていくと、そのある種の人間関係の恒常性みたいなもの、いわば人間関係の摩擦力みたいなもんですよね。それをゼロにして自分でパッパッと決めていくってのは、そもそもの自分の位置(物理空間における意味の恒常性)を否定しているので、どこにも戻ってくる感覚というか、最低限の感覚を否定してるわけじゃないですか。それって、つまり親密な相手を自分で決めていくという一連の作業がうまくいかなかった場合に、拠り所がないので、帰る場所っていうか、着地する地点がない可能性があって、まあそれはヤバいのかなーみたいな。
相原 そうですね。やっぱり身体と物理空間ベースのなにかはあってほしい。
夜空 そうそうそう、そういう話!
相原 まあやっぱり身体つよいと思いますからね。この作者はなんか身体別にいいよ、みたいな感じですけど。いやあわたしやっぱ身体最後まで残ると思うなあ。
夜空 そうなんですよね。だから文脈的に言うと「見せたい部分を見せる」っていうのは「精神と肉体の解離」みたいな話になってて。だからいわゆる身体レベルの「見せたくない部分」っていうのを意識化に抑えこんでしまうにも繋がるかもしれなくて。そうしていくとさっきの「拠り所がない」ために、世間的に非常に分かりやすい「正義vs悪」みたいな感じになって、オッケー!とか言って、炎上させる側に親密性の居場所を求め……。
相原 現実感覚が希薄になり、非行に走る若者みたいな。
夜空 でもそれは非行じゃなくて、本人は「絶対にこれは正しいんだ!」みたいに思ってて。どんどんリプライとかで「ほんとにお前は非国民で~~」とかなんとか言って、それで連帯感が出てくるみたいな。
相原 あーあるやつや。
夜空 そこに連帯感求めていってしまうと、非常に分別がないというか。逆にね。精度が低いですよね。
相原 認知が歪むんだろうなあ。
夜空 だから身体とかですよ、問題は。自分の不都合な部分とかがあるわけじゃないですか。自分の嫌な自分みたいな。そこをあまりにも抑圧してしまい、正義だと簡単に判断した方に行ってしまうのは……軽率ですよね。
相原 う、もうちょっと聞きたいけど。極端な方へ、偏っていく。振り切れていくってこと?
夜空 極端な方へ偏っていく、振り切れていくっていうのは、要するに自分の意志が誘導されてるからじゃないですか。その人自身は自分の意志で言ってるみたいに思ってるけど、実際は、こうスッと誘導されてるみたいな場合があって、それは自分が親密なものを選んでるからじゃないですか?
相原 あー、なんとなく。インターネットって「検索ワードを探す旅」の話じゃないですけど、タコ壺化していくじゃないですか。自分の好きなものを選ぶから。島宇宙というか。まあ固まりますよね、似たような人種が。それで偏っていく。そういう話なのかな。
夜空 そうですね。僕の中でたぶんそれが親密性の話と重なったみたいな感じですね。だからその、元々の物理的空間だとか身体レベルの感覚とかを大事にしてると、ちょっと「摩擦力」がでるというか。自分の位置がなんとなく分かる。そこで歯止めが利くみたいなとこがあると思うんですよね。
相原 そうですね、そうだと思います。やっぱりウェブって、生活空間を搾取する・消費するってのどっかで書かれてましたけど、生活感覚みたいなものがネタ化されたり、擦り減っていく場所だから、そこに没入しつつ感覚を見失わないというバランスが、大変そうですね。
夜空 ノリつつシラけつつですね。
相原 まあ関係ないんですけど、前にFくんがノリつつシラけつつみたいなことを言ってたときに、彼がなんか日本にのれないからアメリカの方に移住しようかなみたいなことを言ってたんですよ。そしたらフォロワーに「Fはノリよりシラケの方に寄ってる人間だからアメリカに行ってもシラケの感覚が強いがゆえに、どこにも馴染めずに破綻するのでつらそう」ということを言われていて。あーってなりました。
夜空 かわいそう……。
相原 シラケってバランスを保つために有用なんだろうけど、シラケすぎるとそれはそれでつらいんだろうなっていうの思いました。完全に余談ですけどね。
<前半を振り返って>
オリンピック、超心配なんですけど
夜空 多孔化って生活空間に孔があくってことじゃないですか。ちがう情報空間が侵入してくるってことで。そこの情報空間ってひとつじゃないですよね。フェイスブックに、ツイッターに、あとマストドン……あれは趣味ごとにアカウントを別で取るみたいなやつで、pawooはピクシブ系、ニコニコ動画はドワンゴが運営してるやつみたいな、でそこでアカウントを別で取るから、もうちょっと固まった趣味の話ができるっていうもので、で、そうなってくるといくつもの自己像が複数同時に存在することになって、それは他者から見られることが前提なんだけれども、その他者っていうのがある制限された一か所じゃなくて、いくつかあるわけで、それはリスク分散みたいなことかもしれないけど、そうしたら極端に偏らないかもしれないですよね。いくつか別の自己像を持っていたら。
相原 そうですね。インターネットだけに偏ってますけどね。
夜空 それはしょうがないですね。
相原 わたし、あんまり読めてないんですけど、ハーバーマスがたしか生活世界の植民地化みたいな概念を出してたじゃないですか。それってわたしたちが日常的に生活する、ものを食べたり服を着たりとかそういう物理空間が、だんだんその資本主義によって経済システムに搾取されていったり、教育システムによって家庭から教育が自律して学校っていうかたちになっていったりっていうところで、元々生活世界の中で完結していたものが奪われて、生活世界が風化していくっていう話をしてたんですけど、ウェブっていうものがすごい流行って現実であったことをぜんぶウェブで言うようになる、ウェブシステムと仮に言いますけど、それが横行してそっちばっかりにかまけるようになっていくとどんどん生活っていう方が希薄になっていくっていう問題が、結構この作者は言いたいのかなあという感じが。
ウェブでそのなんでしょう、自分でたくさん居場所をつくってそれでバランスを取るっていうのも、ひとつ戦略としてありだし正しいんですけど、そこで現実に解離してしまう、地に足がつかない、どんどんウェブの方に乗っ取られてしまう自分が、っていう問題をじゃあどうしていけるんでしょうね。二章が「ソーシャルメディアがわたしをつくる」っていう批判的なあれだったので。
夜空 そうですね。身体レベルどうするんですかって話ですよね。どうするんですか?
相原 どうするんでしょうね。ちゃんと丁寧な生活をしよう、みたいな?
夜空 あとは農業とかを頑張ろうみたいな。
相原 地域を大事にしようとか。
夜空 後半に出てくるかもしれないよね、それは。
相原 最後の方、地域を大事にしようって話しかしてませんからね、この本。
夜空 ちょっとやめよう。……でも、後半に続くのはそういう話か。身体レベルの回復の話になってくのか。そんな気もしますね。
相原 もういっそのこと、水に浮かぶ脳みたいな、電極が挿された脳みたいな、身体を失ってウェブ上に仮想身体をつくってしまえばよいのでは気がしてくる。
夜空 仮想身体……それはVTuberですよね。
相原 確かに。VTuberですね。いやでもVTuberは、仮想身体とからだがまだ感覚的にはまだリンクできてないから。
夜空 それはオキュラスリフトとかの話になってきますよね。VRとか。それはそれで違うんじゃない、身体拡張の話だから。
相原 違うかなあ、そうか。
夜空 自分の醜い部分をどう処理するか、みたいなことでしょう。課題は。まあ、そういうのが後半部での課題になっていくと。後半の第二部は「ウェブ時代の共同性」ですね。共同性をどのように復活させていくのか。
相原 共同性、復活してる兆しがあんまりないんだけどな。おかしいな、この本出たの何年だっけ。
夜空 いやでもオリンピックが控えてますよ。
相原 オリンピック、超心配なんですけど。
夜空 オリンピックのボランティアによって、共同性が復活するんじゃないですか?
相原 絶対やりたくない……、贈与によってこう……。戦争と変わんないじゃん。
夜空 強制労働ですよね。で、あれが就活の兆しとかになってく、みたいな話ですけど。
相原 あーつらい。それで「働いて笑おう」とか言ってるんだもんな。人材会社が。
夜空 そういうのとは別の方法でね、また違った共同性を模索していくわけですね、この本では。
<それから、雑なはなしへ>
創作か犯罪か、みたいな
夜空 VTuberってなにやってるんですか? あんま見てないんですけど。
相原 え、ンヌグムみたいなことしてるんじゃない?
夜空 ンヌグムは別枠でしょ!
相原 え? 別なの。
夜空 別でしょ。もっとキズナアイがノーベル賞に関してなんか「ほぉ~すごいですね~」とか言ってるみたいなことしか、まあ知らないわけだけど。
相原 ですね。わたし、ンヌグムしか見てないからあと分かんないんですよね。
夜空 でも雑談とかをやってるんですかね。でもそれだと……だからニコ生とかで雑談をやってた場合、身体とか見られて「肥ってるじゃん」とかのツッコミとかが来てたわけだけど、その造形がああやって変わることによって、身体が上書きされるわけですよね。スッと抜け落ちてますよね。脱-身体ですよね。
相原 スッと脱-身体ですし、「見られたい私」にもなれてますし。「見たいあなた」でもいてもらってるし。でもインターネット上の距離の遠い関係性だと、相手のからだの汚いところとか見たくないんですよね。
夜空 でもそしたら違う人を見たらいいんじゃない?
相原 え? ああ、確かに。
夜空 整形とかの話に近いのかな。身体改造みたいな。……まあでもそういうのによって、自己のアイデンティティを求める根拠がなくなると危ないし、その傾向があるので注意しましょうみたいな感じ?
相原 分かる。注意していこう。
夜空 アイデンティティの根拠というか、そういう部分がなくなって逆に飛び抜けちゃう人もいると思うけどね。まあそれが創作とかにつながっていくとたぶん面白いんですけどね。
相原 あーいい方向ですね。
夜空 創作か犯罪か、みたいな。音楽とか絵を描くとかそういう風に自分を昇華していけたらね、いいんですけどね。一歩間違えると、危ないですからね。
あ、なんかいま思い出したけどツイッターの「らぶりつ」とか……「らぶりつください」とかの話も。
相原 リツイートをもう一回すること?
夜空 いや、裏アカとかの話で。
相原 え、なにそれ。こわっ。
夜空 そういう界隈みたいなのがあって、自分の身体の一部をアップしたりとかしてるわけですけど、そういう話も第三章までのところで入れた方がよかったかな。
相原 あー入れてもよかったかもしれないですね。いまなんか、知らない知が来たっていう感じだ……。
夜空 でもそれは身体の話だからなあ。親密性とは関係ないか。
相原 いや関係あるかもしれないですよ。自撮りを送りつけることによる親密性というか。
夜空 まあでも出会い系みたいな感じなんですよね、あれって。身体感覚が希薄になってるっていう点ではそうかもしれないけど。
(不可視に浸食する監視と管理、不安定な自我 vs 地域社会 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』③ - yozora_kのブログ
へ続く……)