多孔化を多孔化のまま束ねることの矛盾、悲劇の共同体を超えるためのARは戦争するVRとは違うの?/第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』④ 完

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不可視に浸食する監視と管理、不安定な自我 vs 地域社会 /第一回社会を確かめる会『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』③ - yozora_kのブログ

 

社会を確かめる会は、四流色夜空と相原ユキさんが社会学と呼ばれる領域の数多の本の中から、課題図書として一冊選び、それをテーマに据えて雑多にわいわいおしゃべりする、いわば読書会のような会合です。もちろん本の内容に関連してしゃべってますので未読の方はお気をつけください。

課題本『ウェブ社会のゆくえ 多孔化した現実のなかで』鈴木謙介NHKブックス、2013)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

 

 

 

<第六章 「悲劇の共同体」を超えて>

でも無理やり続けるんだったら、アニメ巡礼でわいわいしたあとに、その記憶を忘却していけばいいんじゃないのかな。

 

夜空 不可視な監視システムによる再分配はダメだけど、この章のはじめに言ってる宗教的な再生産ていうのをそのままのかたちではなく、現代に適応させる試み、っていうのを言いたいんだと思うんですね。そしてジャンリュックナンシーとモーリス・ブランショが登場するんですが、ジャンリュックナンシーの引用がすごいいいんですよね。「したがってなにものも失われたわけではない。それゆえなにものも失われてはいないのだ。失われたのはただわれわれ自身なのである」……かっこいい!

相原 かっこいい!

夜空 ぼくも言いたい。どこかで。

相原 言いましょう、どっかで。

夜空 なにものも失われてはいないのだ。失われたのはただわれわれ自身なのである。……正しい。

相原 4円なくなったとき言えばよかったのに。

夜空 え?

相原 なんか若干レジの数字が合わなかったみたいなことを。

夜空 ははは……。なくなってはない!過不足はなかった!みたいな。なかったのは俺だ!っていう。

相原 笑

夜空 まあ熱いですよね、これは。ここでナンシーが引用されてるのは、社会がなくなったあとに共同体ができたっていうのではなくて、p218に「そこでは共同体の理想が近代社会においてこそ構築され、ロマン主義的に追い求められるもの、つまり失われたという意識こそが共同体を具現化するという逆説」があるということなんですよね。三丁目の夕日みたいな話ですよね。共同体はそもそもあったのかっていう。失われたっていう意識から共同体という幻想を作り上げている。

相原 わたしは割となんか近代国家みたいなものを想定して考えたので、統一民族による帝国だったり王政であったり、そういうものっていうのが葬り去られて市民による社会が、国家ができた、っていうのをちょっと想像しました。

夜空 え、いや……そういうことだったんですか……!

相原 いやそうじゃないかもしれない。社会学っていう学問が割とそこから生まれて、そこを端緒にしてるので、わたしがついそれで考えてしまったという。でもなんかノスタルジーみたいなものってありますよね。失われた……。失われてるからノスタルジーなのか。

夜空 あっでもそうなのかな……「部族あるいは帝国の消滅のうちに、ないしその維持のうちに形成された」って書いてあるから……でもこれは文脈がちょっと……。

相原 曖昧ですね。

夜空 曖昧ですね。

相原 まあ全体的に曖昧ですからね。

夜空 失われたっていう意識が共同体を具現化するっていうナンシーの議論を受けて、ブランショの方が、個人が共同体の中に投げ込まれる体験、その契機としての「他者の死」っていうのについて述べてますね。「他人の死を自分に関わりのある唯一の死でもあるかのように、おのれの身に担いとること。それこそがわたしを自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって、共同体を開示しつつ、その開口部に向けて、わたしを開くことのできる唯一の別離なのである」ということが言われてるんですよね。その失われたという感覚とか死の感覚っていうのが、共同体のはじまりにあるっていうものとして。

相原 そうなのかなって気がします。

夜空 そのあと慰霊行事とかが例に出されていて、抽象化された死者っていう概念が出てくるんですが、死者を抽象化して、そのときの失われた感覚をもとにして共同性を復活させるというか、その喪の感覚でつながる……。

相原 喪失というかたちであれば、具体的な物語が描かれるより共有はしやすいのかなっていうのもなんとなく分かります。虚無への祈りというか。

夜空 この第六章の流れとしては、その喪失の共同体(悲劇の共同体)が、その「失われた」とか「死である」というのを核としたものこそが、共同体を復活させるというか、ひとつの契機としてなりうるという風にしてるので、そこを前提において話が進められてるわけなんですよね。こう、「喪失ありき」で。だと、アニメ聖地巡礼が出てくるのがよく分かんないんですけど……。

相原 でも無理やり続けるんだったら、アニメ巡礼でわいわいしたあとに、その記憶を忘却していけばいいんじゃないのかな。

夜空 忘却していく……。

相原 分からん。なんも分からん。

夜空 まあ観光という点で見ると……。

相原 チェルノブイリが観光地化されてるみたいな話かな。

夜空 あ、そうそう。それが裏にあるんですよね。ここにね、まったくその話題が出てこないので、ちょっと微妙なんですが、「観光」から「悲劇の共同体を超えて」は、明らかにその意図が背後にある。いずれにせよ、ひとつの補助線として「チェルノブイリの観光地化」はありますよね。それがないので、長崎の原爆の慰霊の話とかが例に出されてるんですが、その死者、あるいは被ばく・被災へのいたましい記憶をどうやって維持するか。これは世代交代とかしていくわけで、その最初の喪失を知るもの、当時のことを知ってる人たちっていうのは、どんどんいなくなっていくので、そうやって記憶を継承していくかっていうことが言われていますね。でも当時のことを振り返り痛ましくおもう「生き残った人」の前に、名もない人たち・匿名のひとたち(要するに生き残れなかったひとたち)がいて、悔恨をわれわれに投げかけている。で、その最初の名もない人たちっていうのは供犠に捧げられている、と。

相原 結局なんの話してましたっけ? 最後の方は具体例ですよね。

夜空 記憶の継承……、あっだから記憶の継承することで共同体を復活させるって話ですよね。

相原 あー、そうだ。わたしはここでちょっと「この世界の片隅に」という映画を思い出していました。

夜空 どういう映画ですかそれは。

相原 個人的には、その戦争を現代にどのように描きだせるのかっていうテーマに真っ向から取り組んだ映画だと思っていて、やっぱりその戦争体験の話とか聞いても、「いや、知らないよ、昔の話」ってなるじゃないですか。

夜空 はい。

相原 だからこそ、その当時のひとの生活目線に立って、戦争っていう大きな物語を、できるだけミクロな視点から積み上げていって描くってことに取り組んでいて。「あーこういう感じだったんだな」っていう想像ができる、そういう映画がちょっと前にあったんですよね。やっぱり生活して経験してないことって、現実味が薄れていってしまうじゃないですか。「この世界の片隅に」っていう映画は、戦争の映画ではあるんですけど、そこで生きてる庶民ってものにフォーカスして、それを丁寧に丁寧に描いていったので、結果的に見てる人が、「あーこうなるんだ」っていう分かる感がすごく出るという。

夜空 なるほど。なんか、あれをちょっと思い出しました。たしか五章の文中にあったと思うけど、ハワイで観光客が求めるのは、オーセンティシティ(本物性)だ。で、それは幻想かもしれないっていうのをだれかが言ってて、「それはつくりあげられたものだから」って言ってるんだけど、「いやいやその幻想の中に本物性を見るんだ」って立場もあって。「裏局域」と「表局域」って話のとこで。戦争に関して概略(本物性)を言われるよりも、細部を描かれてる方(幻想の中で垣間見える本物性)がグッとくる。

相原 うーん……。そうですね、細部を描いてくれた方がとグッとくるっていうのもありますし、あとその本物性の話をするんであれば、結局なにが本物かって後世で語り継いでる人にとっては分かんないじゃないですか。すべては虚構でしかないので。まあだからこそ、「この世界の片隅に」の話になってしまいますが、あの映画は虚構としてしか語れないからこそ、虚構として描くかみたいなテーマにすごく取り組んでいて、主人公の女性が絵を描くんですけど、この戦争っていうのも映像として描かれるものとして表現されているっていう。

夜空 そうなんですか。

相原 語ることの虚構性っていうものにすごく敏感な映画だったので、まあ今回の本の話につなげるんであれば、過去から回想する歴史であったり、忘却された供犠であったりっていうのは、どうしても虚構を帯びていかざるを得ないので、であればどうやって「生きた物語」ではないですけど、生きられた経験っていうか、それこそ再帰的なものにしていかなければいけないので、生きていく中で振りかえって何度も強化されていくような、そうしたものにどうしたらしていけるのかっていうのが、必要なのかなって思います。

夜空 いい映画ですね。

相原 じゃあ本に戻って、夜空さんどうですか?

夜空 えっと、最終的に結論としては、さっき言ったような悲劇の共同体の記憶の継承をどのように可能にするかっていうことで、まあ「儀礼」が可能にするってことを言っていて、儀礼で重要なのは身体の動作だって言われてるんですよね。姿勢とかがその儀礼的空間においては意味を持ってくる。なので儀礼っていうのはひとつありなんじゃないかと。けど現実の多孔化による式典の意味の失効っていうのがあって、もうなんか式典の途中でインスタに上げる写真をバンバン撮りはじめたりすると、儀礼自体の意味が失われてしまうのでちょっと厳しいってことを言っていて、じゃあどうすんだってことになってる。そのひとつの懸け橋として、儀礼化の試みとして、「タッチド・エコー」(マルクス・キーソン)っていうのがあって、ドレスデンを見下ろす高台の鉄柵に設けられたAR作品で、鉄柵に肘をついて両手を耳に当てる姿勢を取ると、骨伝導によって飛行機の降下する音や、爆撃音が響いてくるようになっている、と。まあ、これも儀礼的であり、指定された身体の所作をすることによって体験できるわけですよね。

相原 そうですね。その、メモリアル。

夜空 そうそう、メモリアル。忘れてた。

相原 実際に空襲を受けた要所に、メモリアルが施設として置かれることで、たとえばその当時そこで本当にいたひとのように、鉄柵に肘をかけると空襲の音が聞こえるとか、当時起こったことを再体験するっていうシステムなんですかね、制度かな。そういったことが整備されることで、記憶を継承していこうっていう試みが、ラストの方されていましたね。

夜空 そうですね。「非日常と日常のはざま」のような空間を創造することが必要っていうことで終わってるんですけどね。まあ、「タッチド・エコー」とかで戦争の悲惨さ・ヤバさってことを体験することが共同性につながる。その気持ちはよく分かりますよね。

相原 筆者は維持費用や参加者を増やす取り組みの面で問題があるって言ってますよね。お金かーって思うと世知辛い。

夜空 その部分だけに関して言いますが、VRとかで戦争するゲームとかあるじゃないですか。

相原 おっ!

夜空 どうなんですか、それは。

相原 えーでも現実感ないんじゃない。モンハンとかやってても。

夜空 でも「タッチド・エコー」はARでしょ? VRも相当クオリティの高いもの、そしてゲームとかもあると思うんですけど、またあれは違うんですかね。

相原 いやあ、でもやっぱ、娯楽としての戦争物は訴求性が薄そうな気がしますね。

夜空 でもゲーム内での死とかもあるじゃないですか。GAME OVERとか。

相原 うーん。娯楽としての戦争物と「タッチド・エコー」と、どう違うのかっていうところに絞って考えた方が分かりやすそうですね。

 

《結論へ》

依存くらい好きにさせてもいいじゃんかっておもってしまう。

 

相原 結論としてはどんなところになるんでしょう?

夜空 結論としては……やはりタッチド・エコーから、多孔化が多孔化のまま束ねられるみたいな……

相原 束ねられていいのかなあ。

夜空 まあある種の共同性は立ち上がることになります。それは、ハコモノって言われたあの……

相原 ゆるキャラ

夜空 ゆるキャラはちょっとおれ違うと思うんだけどな……若干の疑問が残ってる。だからまあ一過性のメディア戦略による盛り上がりとかの共同性。あるいは、ネットの祭りがつくりあげる共同性。それよりは死や失われたものに関する共同性の方が長く続き、それに焦点を絞って、ある種の共通の感覚っていうのを復活させることが、分断された島宇宙化したわれわれのクラスターにおいて橋渡しの意味を投げかけるのではないか、ってことですよね。結論としては。どうですか、相原さんは?

相原 いいと思います。いっこ面倒くさいこと言うと、分断されて何が悪いのかなってところは……。

夜空 なんか本書で暫定的な結論が三つくらい提示されていてそういうのもあったよね。

相原 あー、なんか三つの方法みたいのありましたっけ。

夜空 そう。そうその中でp236に「果たしてそれは問題なのか、なにを遠慮することがあるのか」っていう。

相原 そうですね。あとはまあ書いてはないですけど、やっぱり島宇宙の中にいると気持ちいいじゃないですか。おそらく、オタクって。他者と出会わなくて済むので、楽だし。SNSで自分を魅せるというかたちで、自閉的にキャンセルとかほのめかしコミュニケーションしてるひとだって、人と関わりたいと思ってるか怪しいじゃないですか。

夜空 なるほど。そうかもしれない。

相原 そう、自閉的に安定してたいって欲望も人間は抱えていそうだなあとは、ちょっと思いました。

夜空 だから……そういう在り方が間違っているなどと、きみたちはどういう正当性をもって言っているのか!って感じですよね。

相原 わたしは基本的には筆者と立場が同じなんですけど、自閉的なものを好む人に正当性をもってこれを主張できる論立てはないような気がしていますね。危ないとか、そういうことになるのかな。

夜空 たぶんね。依存とか。

相原 依存くらい好きにさせてもいいじゃんかっておもってしまう。

夜空 なんか僕、それに関連してひとつおもったのは、もちろんその分断された空間において自閉した場合、なにもおこらないって可能性があるよね。

相原 あ、それはたしかに。

夜空 だからこの本で、メモリアルとかタッチド・エコーとか、それって自発的な行動に限られていて、自分から「それをやってみよう」って言って加わる共同性の話をしてるんだよね。で、普段の状態に言うと……。うーん……まず本書の結論についていうと、さっきそれが自発的なものに限られてるって言ったけれども、無意識的な身体感覚が無視されていて、意識的な身体の所作っていうのを強いる儀礼ですよね、ドレスデンの、あの……鉄柵に肘をついて耳に手を当てるとか、あとは慰霊で黙祷するとか。それってかなり意識的な所作じゃないですか。身体の。で、そうなってくると、無視されている無意識的な身体と意識的な身体っていうのが、より解離する状態になるので、たとえばタッチド・エコーで……まあタッチド・エコーだけじゃないけどもちろん、色んなこうARの啓発的な、啓蒙的な、素晴らしいシステムがあると思うけど……。

相原 全然素晴らしいと思ってなさそうですけど、はい。

夜空 こう参加するよって言って「あーやべーなー」とか言って帰ってきたあと、なんか普通にネットで他人を叩いてるみたいなさあ。

相原 あー。

夜空 意識的なものと普段意識しないものとのあいだに差があるってこと、つまり統合されてないってことで。

相原 地続きじゃないからなあ……わかります、そういうの。

夜空 そこはちょっと思いましたね。だから紹介されてるような参加ってのは形式的に自発的なものにならざるを得ないので、参加しないっていう場合なにも起こらないっていう可能性がある。あの、ネットの一瞬の盛り上がりとかにカチカチやってても、それは忘れるし、で、昔のデモとか学生運動とかは実際に行ったりして、人波に揉まれたりする感覚は残るじゃないですか。で、いまはカチカチっていくから残りにくいですよね。簡単にいうと。

相原 やっぱりちゃんと質感であったりみたいなの、時間とからだで感じなきゃだめなのかな……。

夜空 だから、なにも起こらない可能性から逃げない、逃げないっていうかそれを知りながらやるんだったらいいんだけど、そうじゃないんであればこう……。これはオフ会推奨みたいな話じゃなくて、もちろん。でもあの、やっぱり現実にどっかに行くとか、だれかに会うとか、それかネットの情報の影響を受けて、自分が何かの行動を為す。絵を描いたりとか、本を読んだりとか。だから現実の行動に結びつくかたちで、多孔化された現実を、ていうかネットを見る。ネットのそのコンサマトリーなコミュニケーションで疲れ果ててる場合じゃないってのは、ぼくは思いましたね。

相原 現実でなにも起こらなくならないように、感じたり、ひとと会ったりしていくみたいな。

夜空 そうですねえ……。相原さんはどうですか。

相原 どうですかね、細々したことですけど、全然結論と関係ないけど、監視社会のリスクみたいなものに対しては、やっぱりすべてのリスクを自分で自己決定で回収していくには無理があるので、他者の信頼にゆだねるべきじゃないのかなってことを思ってまして、まあルーマンが『信頼』って本を出してるのでちょっと気になるなあってちょっと思ったりしました。

夜空 なるほど。

相原 感想。

夜空 感想っぽい!

相原 いやあ、なんかこの本読んでて結構、これってあのことなのかなあって思うことが多かったので、そういえばあれもあったなあ、あれも読みたいなあみたいなのがすごくあって、おもしろかったです。

夜空 それはいいことですね。間口が広いというか、どこかと繋がりうるというか。

 

 

《雑談へ》

そういう人たちこそ、実は「なにもしてない」ことに気づくべきじゃないかと思うんだよね。

 

夜空 やっぱ「なにもない」ってヤバいと思うんですよね。

相原 なんか「なにもない」ってところに夜空さんが普段感じてる問題意識とかがあるなら聞いてみたいです。

夜空 でも「なにもない」のヤバさって感じないですか?つまり、ある程度こう現実にコミットしつつネットをやってる場合、何かがもうすでに起こってるので感じない可能性はありますけど、相原さんとかどうですかその辺?

相原 わかんない。たぶんわりとほんとは「なにもない」ことに耐えられてしまう人間で、だから逆にヤバいのかなっていう気がしています。

夜空 ぼくはたぶん、コミュニケーションだけですべてが終わってく世界みたいなさ、ネットのことでもいいし実生活でも。だから結果、「よかったよね」みたいな。こう……「不安とか、傷ついたりもしたけれど、なんか仲よく出来てすごい楽しかったよね」みたいな、まあどっか行くとかアクションがあるなら別だけど、なんかこう……話してただけみたいなさ。あとは別の角度から話すと、たぶん炎上してるとこを叩いてる人とかってさあ、現実は仕事に疲れて、ストレス発散とかでやってる人が多いと思うんだけど、だからそういう人たちこそ、実は「なにもしてない」ことに気づくべきじゃないかと思うんだよね。

相原 んー、虚無感?

夜空 だからそれよりは自分でなにかをやった方が楽しいんじゃないかと思ってるけど。

相原 ちょっと依存と絡めて話したら面白そうですね。

夜空 ネット依存?

相原 んー、ネット依存でもいいですし、依存ってもの自体が無意味な行動を繰り返してしまうってものですから。それってこう地に足ついてないというか。「なにもない」のかなってちょっと思いました。

 

 おわり。