『インターネットの神様』発売記念!「問題のある子」全小説レビュー❀
ぼくたちは疲れている。
クラスメイトのカーストや、両親との軋轢や、職場の人間関係や、ぼくたちに何事かを強いてくる様々な標識や、おびただしい情報の群れや、偽善や虚飾や見栄の張り合いや、恋愛の駆け引きや、切迫した経済事情や、わけのわからないやさしさなんかによって。
疲れていなかった頃のことはよく思い出せない。
葛藤や、逡巡や、ためらいや、親密な吐息遣いはもはや遠ざかってしまった。
そんな人たちこそ読んでしかるべき本を紹介しようと思う。
『問題のある子 ――インターネット大倫理文学第2巻』(青本舎)である。
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0「黒表紙、あるいは暗がりに見捨てられた一匹の猫」
黒い装丁のこの本、表紙には、黒い空間にぽつんと猫がいる。
眼鏡をかけているぬいぐるみである。
ぼくはそれをドルバッキーだと勝手に思っている。
そうすることによってこの冊子の通低しているテーマがはっきりと浮かび上がってくるような気がするからだ。
キレイゴトがなにより嫌いなドルバッキー。
世の中の真理を見抜く猫。
バッキー!バッキー!ドルバッキー!である。
暴いておやりよ、ドルバッキー!にゃー!である。
だけどドルバッキーは単に断罪して回る正義感にあふれた猫なのではない……実は、ご主人様に喋らされているただのぬいぐるみなのである……。ご主人様は果たして正義感だけの人間であったか? 猫を操って本気で世直しを考えていたか? ペテン師は猫と主人のどちらであったのか? この二重構造自体もこの冊子に響いている重要な通奏低音なのではないか。そんな気もする。
1「問題のある子」
前巻(『グッバイグーグルアイ、イ大文1』)では冒頭にあたる部分にあった複素数太郎の小品(境界線上の男)はない。
あれはひどく出来栄えのいいものであったのに非常に残念である……
…………。
しかしそれは杞憂に過ぎなかった!
杞憂に過ぎないことがあると分かると、ひとは嬉しくなるものだ。なぜなら失望しかけていた事態について、失望する必要がなくなったからである。こういうとき、ひとは決まってほっと胸を撫でおろすのだ。珈琲を淹れてしまうかもしれない。
ところで、今作では「問題のある子」と題された庄司理子のイラストがあり、複素数太郎の散文詩が載せられた作品が掲載されている。
イラストの中心では、ひとりの鉢巻きをした受験生が机に向かっている。バックは重力をなくした空間で、制服や上履きが宙に浮いたりひっくり返ったりしている。教室かと思えば、受験生の足元には亀裂が走り、風景の全体にはブロックノイズが走っている。そこで「楽になりたい」と受験生は願っている。受験生が待っているのは、合格通知でも不合格通知でもない。いつか訪れるであろう、〈全自動よくがんばったねマシーン〉の到来を、崖っぷちで彼は孤独に待っているのである。
合作であるにもかかわらず、ひとつの作品として非常に完成度が高い。急速に四方八方に飛散していくエネルギーをもつ複素数太郎の文章を、軽いタッチの、しかし緻密で想像力の広がりを感じさせるイラストがふわりといなすようにつなぎとめている。
「問題のある子」、これは秀逸で、アイロニーの利いた、小品でありながら傑作である。
複素数太郎は庄司理子という協力者を得て、またもや心底を抉り取るような怪作を創り上げた。
2「冷たい丘」(佐川恭一)
伊藤くん、死ねば何もかも消えてしまう、そのことをゴミのような君は喜ぶべきなんだよ。
小学生の話で、永遠への恐れや、やさしさの押し売りといったものがテーマになっている。さほど長くない文量ながら、小学校の教室の陰気な気配が立ち昇ってくる密度をもっている。
この話は主人公、親切にしてくれる女の子(北村さん)、死ぬのが怖い伊藤くんの3人がメインに展開される。途中主人公の意識が錯乱する部分があり、そのことがある種明瞭に示しているのかもしれないが、とにかく人の中には〈永遠への恐れ〉、そして〈日常が永久に続くことへの信頼〉というものが矛盾しながらも併存しているのではないのだろうか。その二つはすぐに分けられるものではなく、ぼくたちの心のなかで沈澱し、ふとなにかのきっかけで浮上してくるものなのではないか。ぼくは、敢えてぼかしていうとするならば、主人公の永久への恐れと伊藤くんの死への恐怖は表裏一体で、非常に近い位置にあるものだと思われる。
善悪を小学生が判断することによって陥りがちな思考の偏重(白か黒かの二択)を、技巧的な部分に加え、実感を込めて描いた作品である。
3「キッズワイヤレス」(相原佳子)
時間は常に、そして徐々に、チーズのように硬くなっていってしまう。
三頁にわたる散文詩のような文章である。作中のイメージにも重なるが、この作品自体が、泳いでいるような、海藻が光の射し込む海底に揺らめいているような印象を受ける。
退廃的な描写のなかに力ないまなざしが風景を映し取っているのが分かる。「わたし」は〈なにもない場所〉と〈なにもかもがある場所〉の狭間のエアポケットのようなところにいて、どちらにも行ってはいけないと自分を制し続けている。抑制し続ける思考は、欲望のダイナミクスを削ぎ落されてしまっている。
だから「わたし」のまなざしは、いたって静的に空想し続ける。
現実味を欠いた分、より現実的な視点で物事を見ているのかもしれない。
風、砂、余白の泡。世界はそういったところに宿っている。
4「言葉は羽根をもつ」(水宮うみ)
どうした? 白熊見たいか?
これはポップな感じのする明るい作品だ。〈羽鳥島〉という、人間は羽を生やして空を飛ぶのが当たり前の島で、唯一羽を生やしていない「僕」が主人公である。「僕」は羽が自分だけ生えていないのをコンプレックスに、日々を過ごしていたが、島本朝という女の子に「言葉の羽」を授かる……。
言葉が羽根を持ち、空を自由に飛び交うさまをあなたは想像できるだろうか。この歓びは創作に携わるひとのみならず、誰でも日々生活している者ならば身に覚えのある感覚に違いあるまい。大切なひとと心を通わせるとき、もちろんそれがすべてではないにせよ、言葉は重要な役割を果たす。羽ばたける言葉もあれば、墜落する言葉もある。いかなる複雑な事情をも乗り越えて、相手に飛び立つ言葉、それを受け取ってもらえたときの歓びは、足が地上から浮遊しだしたような、まるで「浮足立つ」といったものなのではないか。
詩は言葉、小説は言葉、さりとて日常会話も言葉だ。
言葉に羽根を宿らせられるかどうか、それはあなた自身の勇気にまつわる問題だ。
5「三百円」(四流色夜空)
もし、もう一度やり直せるとしたら……、私たち、また一緒にいられるかな。
これは拙作なので詳細は省くことにするが、ひどく物事を単純化して言うのなら、ネットカフェで三百円足りなかった男が、女の子に脅されて京都を彷徨する話だ。テーマは子供。
前回の「光の空降るエンドロール」(『グッバイグーグルアイ』に収録)が新しい手法で自分なりにはそこそこ成功したので、今度は一転ウェルメイドなもの(リアリズム)を書こうと思ったのである。文量的にもちょっと長いと思われるかもしれないが、かつて大学時代に書こうとしていた形式を用いて、ぼくのいま持ちうる技術でどこまで書けるのだろう、と思い、そして書いた。
ちなみに次作ではアンチ・ロマンをテーマに据えたため、「三百円」とはまた作風が変わっている。
6「私の終りとハートブレイク・ワンダーランド」(藤井龍一郎)
わたしはそれをどうしようもないほど悲しく思いました。どうしようもないほど幸せだったからです。
世界最強の魔法使いを父親に持つ女の子が空飛ぶ城に乗って、世界一周旅行に出るというのが物語の始まりである。この作品は七頁に渡るが、おおまかに四つのシークエンスに分けられる。出発前の親子にまつわるパート、出発後の火の悪魔と女の子との掛け合い、不時着後の(旅で会った仲間である)リュウ・クラウス・ベロニカとの事件、そしてエピローグ。
この四つのパートはそれぞれ短い文量で書かれているのだが、それにもかかわらず、読んでいるうちにその世界観が容易に想定できるような書かれ方をしている。作者の伝えたい部分が、読者に伝わる上で、無駄な部分を一切削ぎ落してる。だからファンタジー調の突拍子のない設定でも、説明不足な箇所が垣間見えても、読者は魔法使いで父親に憧れる「わたし」に共感して、物語を読むことができる。
そして終わり方、さっきはエピローグと呼んだパートだが、これは簡素な文章ながらはっきりヴィジョンが網膜に再生される悲痛なラストである。
7「破いて、ツインシュー」(かみしの)
またこんなところで海を見てるんだ。
これはふたりの女子高生の話だ。
ひとつ前の藤井氏の作品でも映像的な部分があるという話をしたが、本作を読んでいると実際にレイトショーでやる自主制作映画でも見せられている気分になる。
というのも、ある種の世界観がきっちりと構築されているのだ。それは現実の生活世界との軋轢から生じたものかもしれないが、もう完全に女の子は別の世界に生きて、会話をしている。それは出来の悪い果敢ない妖精の逃避行のようにも見える。
ぼくが好きなのは、「セックスしてみたい?」という一方の女の子の問いかけに主人公が黙り、その女友達が自分で答える、という場面だ。女の子の答えはこうだ。「わたしはしたくない。だって、わたしはわたしだけで完璧なのに、どうしてわざわざ不完全になるの?」
象徴的行為、というのがある部分で取り沙汰されているが、それがこの作品のテーマでもあるのかもしれない。特別になれなかった普通の人間は、象徴的行為という業を背負っている。象徴的行為を求め、行為してしまうこと自体に怯えてしまう二律背反。パラノイア。読者であるぼくは「それはそのもので美しい」という考え、ある種、悉有仏性的な価値観でも生きている(あるいはそう自分に言い聞かせ、誤魔化している)ので、そのパラノイアの泥沼にはあまり嵌り込まないのだが、しかし本作にはそれを実感させる力量がある。象徴的行為に憑依されるのは現代的でもあるのかもしれない。それは自己顕示意欲を助長する各種のSNSであり、まあこんなことはだれでも言ってるから省くとして、いずれにせよほとんどの人間がそれに対して無自覚であるのは事実である。
象徴的行為に拘泥する少女ふたりの痛みも、それで彼女たちがなにを決心し、なにを遂行しても、それはただしいのである。それは彼女たちなりの真摯さだ、誠実さだ、生きていく実感だ。それが間違ってるなんてことは、絶対に、ない。
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と、いうわけで小説レビューしてきたが、本冊子には小説のあとにホリィ・セン氏による「暴力の宛先」というエッセイ、複素数太郎氏による「数学と思想(一)」などが掲載されているが、ぼくができるのは小説の紹介・レビューくらいなものだ。そのほかは手に余る。ぼくの能力に余る。実際に読んでみて欲しい。ちじょこ氏やしずまうに氏のイラストはとても感覚に訴えかけてくるものがあった。イ大倫3ではしずまうに氏は参加していないのだろうか、あの方のイラストは結構好きであった。また同じ巻に載ることを期待している。
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今週9月9日に大阪で文学フリマ が行なわれる。そこではインターネット大倫理文学の三巻『インターネットの神様』が頒布される。ブースは青本舎(H-19)だ。そこにもぼくは寄稿させていただいているのだが、ぼくの個人誌『ポップ & エンド』も委託させていただく予定だ。
boothからも購入可能だが、会場に赴いた方は是非手に取ってみて欲しい。夜空100%の作品集であるから。
booth: https://yoruiroyozora.booth.pm/items/665168