『ノット救済エンド』発売記念!「インターネットの神様」全作品レビュー❀

小説や詩の合同誌『ノット救済エンド』が発刊されました。

僕は今回、そこに「リンゴ、それともパイナップル?」という中編小説を寄稿させていただいています。インターネット大倫理文学の第4集となる『ノット救済エンド』発売を記念して、第3集となる『インターネットの神様』を紹介したいと思います。

◆『ノット救済エンド』は青本舎のboothで購入できます。ぜひ、僕の小説ともどもよろしくお願いしますね(❀・x・)

→→→https://fukuso-sutaro.booth.pm/items/2094291

 

 

では、お待たせしました。

インターネットの神様』の時間です。

f:id:yozora_k:20200606172247j:plain

インターネットの神様』表紙

   インターネットの神様、全作品レビュー!

 感想というか、紹介というか、二次創作というか、ぼくはぼくにできうるかぎりの技術で、これを読むひとに『インターネットの神様』をプレゼンしたいと思う。なぜならきみはまだ『インターネットの神様』に出会ってないかもしれないのだから。だからぼくは文字を書く。それぞれの作品について、できるだけ寄り添ったやり方で。憑依、という言葉がふさわしいのであれば、そう呼んでもいい。とにかく、ぼくはきみたちに『インターネットの神様』に収録されている作品を、紹介しよう。紹介するぞ! えいっ、えいっ!

 

   1.「インターネットの神様」(庄司理子)

 巻頭に掲げられた一枚の絵。
 これは教会の祭壇に祀られる聖画、宗教画だ。
 それはぼくらを清めてくれる、慰撫してくれる、赦してくれる。
 ぼくらはぼくらではなくなる、ひとつのたましいとして、神様の前に捧げられる。浄化したぼくらには行くべきところがある。霊魂のみが入るのを許される扉が、轟轟と地鳴りのような音を立てはじめる……。
 さあ、晴れて地獄の門がひらかれた。インターネットの神様が見つけた、地獄のお披露目というわけだ。そこに響くのは救済を求める声、救済をあきらめる声、祈りにならない祈りの声、うめき声にならないうめき声……。なぜ、地獄なのか? この世には天国も地獄もないはずなのに。だが、インターネットの神様の救済を求める者は、いつだって地獄にいるのだ。気遣ってくれていた誰かの声も、差し伸べられる救いの手も届かないほど、遠くに行ってしまった彼らはいま暗がりでじっとしている。自分の手も見えないほどの暗闇のなかで。泣きたくても涙が出ない、そんな地獄で。さあ、見に行こう。われわれがインターネットの神様の目となって、暗闇のなかで声を出せずに泣いている彼らを、われわれと同じく清められたたましいへと浄化しに行こう。これは旅だ。ぼく、そしてきみの。


   2.「肌ざわりのいいタオル」(四流色夜空)

”本当に優れた考えは、本当に優れた人間にしか分からないものだ”

 拙作。「1.下水道人生」、「2.トマト潰れて、老婆嗤って」、「3.公園の壁」、「4.わくわくインターネット」、「5.ホテル」、「6・肌ざわりのいいタオル」、という6つの短編からなる連作小説みたいな感じです。ご都合主義的ロマンティシズムを徹底的に排除しようと決めていました。それゆえに悪辣な言葉で形容される人間模様が描かれているのですが、それはつまり感傷さを排除することによって浮かび上がる「豊かさ」のようなものを表したかったからなのです。ぼくの好きな作品です。


   3.「マイナスの世界樹」(かみしの)

”あなたの世界樹は、一段と汚かった。だから気になっただけ”

 次から次へと本を読み、それを積み上げることで「塔」をつくる男と、部屋の床に穿たれた「大きな穴」へと投げ込む少女の話。
 ひたすら本を読みつづける人間は、途方もないその行為によって、いったい何をなそうとしているのか。読書を読書として楽しむためなら、そんなに多くの本を必要とするわけではない、と思う。日常を細分化する時計の針の進度を超えて、その一歩先へ(あるいは一歩底へ)、飛び越えようとする、現実ではない現実をつくりだそうとする、そんな意志に突き動かされてのことかもしれない。そういった非力ながらも世間から逃れようとする、退屈で色褪せた努力が、世界樹をつくりあげる。
「大きな穴」へ本を投げ込んだ少女は、「わたしは救済ではない」と断言する。まるで男の弱々しい世界樹が、彼の自意識そのものだと断罪するような口調で。男の自意識は、あらゆる文字によって記述される。男の感情は、あらゆる文字によって記述される。文字によって記述されないものはない、というのは悲観主義者の考え方だ。現に文字に還元されない存在として、世界樹は存在した。そして存在する。
 それは少女が見つけたから。彼女によって、彼の自意識(洪水のような文字、あるいは文字の洪水)は世界樹として屹立した。少女は、たとえそれが救済ではないやり方であったにせよ、彼が口走る不安定な文字たちを、塔=世界樹として確定させたのだ。存在することが重要だ。それがプラスであれ、マイナスであれ。


   4.「絶筆」(異島工房)

”いやあしかし、当直前のヒロポンは格別ですな”

 多くは語らないが下品な物語がスタートする。自分が絶対書かない(書けない)物語展開で始まるこの作品、前半は町田康を思わせる七五調のコミカルな文体で、町田康で読んだことがあるような下品な話が続いていく。だが、下品さを敢えて持ち出し笑いに変えてしまうのも、手腕のひとつだ。日本や世界の神話だって、下品なものはいくつもあるのだから、そこに拘泥するつmりもない。ただ、飛ばしてんなーと思う。そのようなことが文学では可能なのである。ラフプレイではあるが。ちなみに前半は町田節という印象を受けたが、(もちろん筆者である異島先生が町田を読んだことがない可能性だってありうる、言うまでもないことだが。)中盤ではいかれたヒロポン中毒医者たちの戯曲になり、後半はやけに静謐な三島由紀夫じみた文体となる。
 いくつかの展開がとても印象的な映像として残る。だがその背景にあるのは、やるせない自堕落な自称小説家の、オレって駄目なんすよね~そもそもイケてないんすよ~~という独白である。
 自称小説家は三島の脳の支配下の下で、いったいなにを考えているのだろう。革命などを夢見ながらも、夢見ながら終わってしまうのだろうか? 人生がいつか終わるように、夢から醒めて現実に帰らなければならない日もいつか来る。
 

   5.「つらいは甘え」(社会的信用がない)

”すべて社会が悪い”

 うっかり不定愁訴にかかってしまった、というエッセイ。ちなみに不定愁訴とは「特に原因がないのに、そこはかとなくつらく感じてしまう症状のこと」。
 つらさ、というのは絶対的なものではなく、絶対的に感じてしまう主観に基づいている。だが、主観に基づいているからと言って、それは無視できるものではない。他人が無視しても自分にとっては、そのなかでしか生きられないもの、それが主観であるのだから。
 ポリティカルコレクトネスが浸透した現代社会においては、さまざまな道徳律が打ち立てられている。結婚、職業、私有財産、恋愛、健康、政治的主張、性別、整形、性転換……、そういったさまざまなことについての、さまざまな幸福が述べ立てられている。だが、それらすべてに当てはまらないひとがいたら? と、いうかそもそも規定されたカテゴリのなかで享受する幸福に疑いを差しはさまないひとが存在するのだろうか? もしいるのであれば、それは勇気ある人々だ。勇気のない人間が、幸福を受け取るのは難しい。
 失うものがなく、勇気のある人間がテロリストになることだってある。だが、逆に失うものをもち、勇気のある人間が大虐殺を起こすことだってある。幸せはつねにひそんでいる。ツイッターのリプライ欄やいいね欄や、昨日見た飛行機雲や、保育園から聞こえる子供たちの歓声や、失敗した婚活帰りの電車のホームや、何事も果たしえなかったぼくらの不甲斐ない生活の周りで。それらは一歩引いて、ぼくらを観察しているのだ。そしてささやかに話しかけることもあるだろう。そんな声に耳を傾ける、そういう類の勇気もありうる。


   6.「回線を切れ」(複素数太郎)

”黙れ、カルト女め! 俺の家は宗教施設なんかじゃないぞ!”

 インターネットが上手な顔のいい女、ロクはインターネットが上手だったから、俺の家に来るようになった。俺はロクに「インターネットの神様」だと思われている……。
 複素数太郎の文章に関して、ぼくはB級カルト映画のショートフィルムを見ている、という感想しか抱けない。そこにあるのは無秩序な情念であり、ユーチューバーの収益化であり、善き思い出として消費され続ける消費される主人公という名のポルノでもあり、いたるところで切り落とされる、顔のいい女ロクの手首である。インターネットの神様は、養命酒を飲んでいる。
 僕がこんなことをちんたら書いている間にも、複素数太郎は意味の分からない、意味など必要としない文字を書き、全国にFAX送信を開始する。それが迷惑になるなどとは思っていない。なぜならFAXは送信するものだから、それゆえにFAXを送信する。全国民に向けて複素数太郎の署名入りのFAXが送信される。彼の朝は早い、大体五十四時から七十二時間にかけて、彼はアルミホイルを点検し、そこに彼の悪口がないか、点検する。それはプロ並みの手つきであり、素人のアルミホイルほど目も当てられないものはない。素早い手つきで点検し終えると、彼はそれをぐるぐると頭に巻き、「インターネットの神様」となる。すべての電波が混線する。だからラストシーンで、「少年、グリグリメガネを拾う」のように、「見えて」しまうことにもなる。まったく複素数太郎という人間は、インターネットに愛され、インターネットに嫌われつづける人間としか形容できない。それを見てるあなたが、本当の「インターネットの神様」になれる日も遠くない。なぜならロクはすでにあなたの家の前で、自分の手首を切り落としているのだから……。


   7.「ちじょこが死んだ日」(杞憂ちゃん)

”ただただ解放されたいと思った”

 「iphoneを探す」というGPSアプリによって、母親が常にわたしにアクセスしてくる気の抜けなさを実体験としてもった人がどれくらいいるだろう?
 だが、そんな逼迫した状況にいずとも、それが自分の身のように起きうることはだれでも理解しうるだろう。こうやってインターネット回線をつないで、アイデンティティを獲得していく時代では、常に現実の人間関係との齟齬が生じる。それらは裏と表の関係であり、どちらもが正真正銘の自分の正体なのだから。データ上の削除を余儀なくされた自分自身も、《偽りの自分自身》ではまったくない。ツイッターの自分自身も、現実の大学院に進学したわたしと同一の価値をもち、血を通わせている。
「わたし」が生きている限り、きっと口を塞ぎにやってくるであろう彼らは、そのことに気がついていない。そうした軋轢が養分となって、「わたし」を増殖させていることに。無理解な彼らのために「わたし」が生まれたわけではないが、口さがない彼らの無責任な物言いが、物事の裏を読まない安易な暴力が、自分が正義と思い込んでやまないその監視の目が、「わたし」を分散させ、増殖させつづける。力に抗いもせず、単純に力とはかけ離れた場所で、「わたし」がかつて殺された場所で、「わたし」は常に生きつづける。


   8.「新・さぼた~じゅ」(梓義朗)

”僕の拡張子を今すぐjpg形式に書き換えて容量を下げてしまえればいい”

 それは真夏日の悪夢。
 日高さんの右手には改札に似た出入り口があって、その出入り口は、おそらく僕しか知らない仕組みをしている。日高さんはそこにいる。日高さんはそこにいない。機械音声のような声がする。それにぼくは導かれる。日高さんがしゃべっている。日高さんがしゃべっていない。ぼくだけがここにいる。ぼくだけがしゃべっている。日高さんの右手はドラッグ、それもすごく簡単な作りをした電子ドラッグだ。日高さんがそこにいる。日高さんのしゃべっている、日高さんの機械音声のような声が、日高さんの喉を通して、日高さんの目の前にある空気の粒をゆらして、日高さんの右手を見つめてたぼくに、日高さんの声がする、日高さんはそこにいる。ぼくが――
 ――寝返りを打つそのときまで。


   9.「Oh my justice!」(奴隷商人)

”雑草って名前の草はない”

 付属CDにおける奴隷商人のリリックが載っています。それだけでも楽しいのですが、youtubeの動画を見てもらった方が、よりダイレクトにあなたのハートにビートするんじゃないかなと思います。ダウナーにならざるをねえ俺たちの日常を斬りひらいてくれよ奴隷商人。


奴隷商人 - oh my justice

 


まとめ


 今回青本舎から第四集が出るのに先立って、この第三集「インターネットの神様」を読み返したわけだけれども、率直に言って、前衛的な実験がこの本のなかでも縦横無尽にされていて、こんなことをやってるの、ほかで見たことない! って感じでした。ただ自分のことを言うだけの文章は、いくらでもあるわけだけれど、ここまで赤裸々に作品として集めてるものも少ないな、と言いますか。興味あるひとはぜひ、買ってみてはいかがでしょうか。中身が濃いのは間違いないです。
 そして手前みそではありますが、わたし、四流色夜空主催の合同誌『HEAVEN2020』もそろそろインターネットで頒布予定なので、そちらも気にしておいてください。めっちゃ豪華な布陣となっております。

 

◆『インターネットの神様』pdf購入リンク

→→→→→→https://fukuso-sutaro.booth.pm/items/1006394

 

◆四流色夜空のサークル本、購入リンクはこちら

→→→→→→https://yoruiroyozora.booth.pm/