Complicate / Simplify

ネットワーク技術が複雑になるたびに、ひとの思考は単純になる。

ソーシャルネットワークサービスの発達によって、常に人々はほかの人々と隣接し、連帯し、感覚の記録を共有している。電子の回路に乗せてひとは話し相手を探し、愚痴を漏らし、プレゼンをし、一日一日のたわいないことを共有する。言ってみればそれは井戸端会議の拡張版、デンシ=イドバタと呼ばれるものである。井戸端で話されている言葉のそれぞれよりも、井戸端が保持しようと努めているのはいわゆる「空気」の補強である。「ぼくたちみんな一緒だよね、おなじだよね」みたいな、「空気読めないのきもくなあい?」みたいな感覚を後生大事に保っている。それは近代においては町内会だとか教室だとか会社だとかに見とめられたものであるのだが、いまや電子の世界に井戸端は移行している。いまやネットワークの海に世間の欲望であるところの「空気」は、毒霧のように蔓延しているのである。「空気」は、われわれはわれわれであらねばならないというトートロジーを含んでいる。だが実際には、われわれをなす個人Aと個人Bは同一ではない。わたしとあなたは同じではない。

そう言ってみれば、「わたしとあなたは同じではないが、一緒にいることになっていることの了解」が「空気」だとも理解できるだろう。そしてこれが正しい状態の「空気」である。ひとの孤独や不安がそれを傾かせるのかもしれない。ひとの孤独や不安は、自分を認めて欲しい、肯定して欲しい、褒めて欲しい、許してほしい、と意味もなく願っているものだ。人々の自己愛が「空気」を動かすとき、それは異なる思考への排除へと傾いていく。その裏にあるのは、「なぜあなたはわたしと同じではないのか」「なぜあなたはわたしに従わないのか」「なぜあなたはわたしのことをおびやかすのか」といった切羽詰まった被害妄想である。ソーシャルなつながりが増築されたいまになってみると、世間の欲望である「空気」に個人に属する固有な欲望「唯一のわたし」が抗うことは困難になっているのかもしれない。


一ノ瀬はじめが中心となってガッチャマンが世間に対して最後にやってみせたのは、命を賭けたひとつの演劇であった。自己愛に根づいた腐った「空気」を変えるのは、それを裏切る演劇しかないのではないか。それができるのか、わたしたちには。


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