可能世界系とリゾーム系に関しての覚書

 セカイ系(と呼ばれる物語構造の一潮流、以下セカイ系と便宜的に記す)とヌーヴォロマン(と呼ばれる物語構造の一潮流、以下ヌーヴォロマンと便宜的に記す)について思いついた概略を書いておく。発想の発端は、いまアーヴィン・ウェルシュの「マラボゥストーク」を読んでいて、これが《病室で植物状態である主人公》と《アフリカで獰猛な鳥であるマラボゥストークを狩る主人公》の話が平行して進み、ときには混ざり合う小説であるというところからだ。

 

 

マラボゥストーク

マラボゥストーク

 

 

 私は、時間軸の錯綜する(たとえば、回想の中に回想があったり etc…)純文学的な作品が好きなのだが、そこには主だった二種類の区別が存在する。それがセカイ系とヌーヴォロマン(反・小説)だ。

 セカイ系では、現実の悲惨な状態により別の可能世界が要請されることになり、その第二の世界線が第一の現実の逃避先である場合がある。(もちろん作品によっては第二の世界線こそが本当の世界という場合もありうる。)

 ヌーヴォ・ロマンにおいても、妄想なのか幻覚なのか判別不可能な世界が描かれることがあるが、こちらの場合は、そういった心理学的な防衛機制によるものではなく、複数の時空間が描かれているように読めても、それは同一の現実(スクリーン)と呼べるものであるのだ。この点が両者でははっきりと異なっている。

 つまりここでは、《可能世界を取り扱う物語》をセカイ系と呼び、絶えず変化する現実をそのまま近視眼的に認識しようとしてる物語、言ってしまえば《認識論的手法としての分裂症的視点を取り扱う物語》をヌーヴォ・ロマンと呼んでいる。

 その括りで言えば、「マラボゥストーク」は明らかに前者、《セカイ系=可能世界系》に属する物語である。

 

 ここまでの説明では馴染みがあるために「セカイ系」という単語を使っていたが、もう少し正確を期すために「可能世界系」と呼びたいと思う。同じ理由で、「ヌーヴォ・ロマン」を「リゾーム系」と呼ぶ。この二つは物語構造が一直線(ベタ)ではない、という意味では似ているのだが、実際にはこの二つの類型には明確に方法論な違いがある。さっきの説明と重なる部分もあるが、もうすこし詳しく見てみよう。

 

 可能世界系の特徴としては、主に一人称が多い。ある悲惨な状態のためにそこを現実(中心点)として可能世界(平行世界)が要請される。

 たとえば、多くも知っているだろう例を出すと、「涼宮ハルヒ」。それも「エンドレスエイト」(物語の中で夏休みが何千回と繰り返されるが、それは平行世界を要請している)だと、あれはループものとしても読めるが、どこかしら違う箇所がある可能世界がきて、それはハルヒの不満(ある悲惨な状態)のために要請されているのが分かる。そのため、物語の運びとしては極めて合理的なものと判断することができる。それは常に中心によってその周縁の世界線が招聘されるにすぎないためである。つまりここで可能世界(平行世界)と呼んでいるものは、まず現実に「ある悲惨な状態」があって、そこで初めて生じるのである。「ある悲惨な状態」がなければ、可能世界に対して要請や参照がされることがなく、存在することにすらならない。

※ちなみに、ここでは多世界が現在と同時的に参照可能なものとして存在する物語群に限って話をしているため、いわゆるノベルゲームのように可能世界への選択肢が前に開けている状態とは別の論点の話をしている。

 

それでは、さきほどから説明もろくにしてないヌーヴォ・ロマンだが、以下はwikiから。

ヌーヴォー・ロマン(仏:Nouveau roman、「新しい小説」の意)は、第二次世界大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群を形容した呼称で、アンチ・ロマン(Anti Roman、「反小説」の意)と呼ばれることもある。“

 

 ヌーヴォー・ロマンの潮流では、私はロブ=グリエ『快楽の館』、クロソウスキー『ロベルトは今夜』、ロランス・ダレル『黒い本』、ベケット『モロイ』とほかの戯曲くらいしか読んでいないが、その前衛さ、それまでの伝統的な文体を解体すること、言語の解体、それによって更に読者に印象を呼び起こすことができる。方法論的には同じ場面が繰り返されるものの、差異がある「反復形式」や、回想や想像が差し挟まれ、現実をはっきりさせない技法もある。人称が特異なこともある。

 私の考えでは、昨今の日本作家、山下澄人『砂漠ダンス』『鳥の会議』ではその精神性が垣間見えた気がするので、それは山下澄人が演劇人だったということもあろうが(ベケットも戯曲をよく書いている)、ある種のそれっぽさはあった。

 私としては、まだ新しい作家・劇作家のあいだでもヌーヴォ・ロマンの魂が息づいているのを願うばかりだ。

 

 

最後に、大雑把な区別として・・・

 

★可能世界系(合理的、エンタメ的、ある事情により別の時空間が要請される)=ある悲惨な状態のためにそこを現実として可能世界(平行世界)が参照される。一人称が多い。ほかの可能世界の存在(差異)を強調するための反復。

例:マラボゥストーク俺たちに翼はない涼宮ハルヒの消失マルホランド・ドライブ(応用)、ベケットの「残り火」

 

リゾーム系(分裂症的視点、認識論的手法、そこここで変化する現実)

=現実を変化のあるものとして認識しようとするために物語構造が(妄想や現実、時間や空間が撹拌したり重なり合うことで)重層的になる。主観的三人称の場合も。現実を重層化するための反復(変化をもつ現実を近視眼的に認識しようとする反復)。不合理。

例:アラン・ロブ=グリエクロソウスキーロレンス・ダレルベケット山下澄人笙野頼子の「二百回忌」、あずまひでお、ゴダールのコラージュ映画(応用)

 

★物語構造がベタでないものにもほかのタイプはある。

例えば、「メメント」(クリストファー・ノーラン)は、その展開が可能世界を彷彿とさせるが、実際は時空間の逆再生をトリックとして使っているため、上記のタイプには収まらない。未読だが、バロウズカットアップ技法。